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『六日間戦争ののち、旧体制は崩壊し』
階段教室の一番後ろに陣取ったカレルは、教壇に立つマレクの姿をぼんやりと眺めた。
『枢機国を中心とする調停使節軍の指導のもと』
リグレノイドのマレクには、インストラクター用の公式マニュアルなど必要ない。それどころか教卓のキーボードに触れずとも生徒の端末に直接アクセスできるため、そもそも教室にいる必要すらない。なのに彼は不要なはずのマニュアルを片手に、そこで一時間近くも話し続けていた。
『現在の体制、すなわちレベッカ平原のスラウォミール、北部工業地帯のイルムガルト』
何の偶然か、この八年間マレクの受け持ちから外れることがなかったカレルは、その見慣れた光景にひとつの仮説を立てていた。おそらくマレクはその灰色がかった青い瞳で記録しているのだ。生徒の授業態度を収集し、教育局に報告するのが彼の役割に違いない。
『そして旧首都を中心とするここオクタヴィア。以上、三つの自治州に分割されたのです』
そう思って周りを見渡すと、昨夜のチャットの延長戦をしているやつや、睡眠不足をここぞとばかりに解消しているやつが目についた。隣のミロッシュにいたっては、ご丁寧にもモニターまで畳み、その上に突っ伏している。
『では時間が来ましたので、今日はここまでとします。来週からはイルムガルトの政治形態を、オクタヴィアのそれと比較して説明していきます』
マレクの内蔵時計は今日もすこぶる正確ならしく、彼が言葉を切ると同時にチャイムが鳴り響いた。今まで油断していた連中も不意に我に返った様子で、ひまつぶしのおしゃべりを打ち切り、寝ぼけた頭を振り起こし、黙って教室をあとにしていく。
カレルも端末機からメモリカードを抜き出した。電源を落としモニターを閉じようとすると、いつのまにか立ち上がっていたミロッシュが肩をつついてきた。屋上に誘っているつもりなのか、太い首を精一杯伸ばし、頑丈そうな顎の先端を上に向けている。
そんなポーズをとるくらいなら声を出せばいいのにと呆れつつ、カレルは「少し遅れていく」と短く答えた。すぐさましかめ面としか思えない表情がミロッシュの丸顔に浮かんだ。彼のウインクには親しい者にしか理解を許さない傾向があり、幼なじみのカレルでさえ、それが意味するところを知ったのはつい最近のことだった。
そういう不都合を本人も自覚しているのか、ミロッシュは軽い頷きを補足説明に充てたあと、こういった場面でのみ素早い反応と統制のとれた行動をみせる連中の列に合流していった。進級とともにクラス替えをしてから半年あまり、未だまとまりのない集団が唯一団結する日に一度の定例的なセレモニーが、教室の後ろで厳かに催されていた。
その混雑が一段落するのを待って、カレルはおもむろに行動を起こした。ようやく整然と流れるようになった帰宅の列には加わらず、踏み面が長い割に蹴込みが低く、どうにもリズムにのれない階段状の通路へと向かった。お目当てのマレクは、いつものように生徒全員の退出を教壇の上から見届けようとしていた。カレルはそれを確認しながら、二歩半進んで一段下がるという不快な動作を繰り返していった。
しかし教室の半分まで進んだところで、不意にマレクが動きをみせた。最後部のドアが閉まる音と同時に回れ右をして、教壇奥の自動扉に近づいていく。
「マレク」
舌打ちを飲み込んで、カレルはできるだけ冷静に声をかけた。インストラクター専用の自動扉がいったん閉まってしまえば、生徒の自分にはもう開ける手だてがない。
「訊きたいことがあるんだけど」
その声は間違いなくマレクの耳に届いたはずだった。二人きりの教室は充分に静かだったし、それにリグレノイドの聴力が人間より劣るとは思えない。だがマレクは正確な足取りを緩めなかった。何事もなかったように素知らぬふりで遠ざかっていく。
「待って!」
自ら発した叫びを追い越すように、カレルの身体は思うより先に動き出していた。緩やかなくせして気ぜわしい階段を、一段飛ばしで強引に駆けおりる。
(どうして、マレクは人間の呼びかけを無視できる?)
たった今発見したことに、ますます興味をかきたてられた。
(なぜ、彼は他のリグレノイドとは違う?)
カレルにとってそれを問いただせる機会は、おそらく今日が最後だった。
*
滑り込んだカレルの足先が、両の扉の密着を防いだ。名残惜しそうに離れてゆくステンレス板の隙間から、右手を差し伸べるマレクの姿が現れた。
「さすがファクトリーメイドだけあって、身体能力が高い。それに判断も適切でした」
カレルは少し迷ったあと、その人工の手をとって起き上がった。そこに違和感がないことが、逆に大きな違和感となった。
「貴方の手には指紋がある。それに手相占いもできそうです」
マレクの手を離したカレルは、カーゴパンツの尻をはたきながら、初めて足を踏み入れた場所にさりげない観察を加えた。とはいっても、事務棟と各教室に挟まれた窓のない回廊に見るべきものはなく、左右の壁に連なる蛍光灯がやけに眩しく感じられただけだった。背後で自動扉が閉まると、余計その印象が強まった。
「私の手の模様は、私の意志によって変えることができます。だから占いは無意味です」
宙に浮いた右手に一度目を落としたあと、マレクは顔を上げた。「でも訊きたいこととは、そんなことではないのでしょう?」青白い光が彼の伊達メガネに反射した。
確かにカレルには訊きたいことが山ほどあった。街中でリグレノイドを見かける機会はまずないから、クラスの連中は知らないのだろうが、カレルが週に一度顔を会わすエルラボのリグレノイドたちは、皆一様にフィットスーツとラバーシューズを身につけ、曖昧な表現はせず、そしてマスター以外の人間の要求にも可能な限り答えてくれる。もちろん手のひらには滑り止めの細かい溝がついているけれど、それは画一的で個性を主張するものではない。ところがツイードのジャケットを羽織り伊達メガネまでかけた目の前の男性型リグレノイドは、インストラクターを務めているだけでも珍しいのに、人の呼びかけさえ無視できるとくれば、まるで人間そのものだ。彼と他のリグレノイドとの共通点といえば、自分より僅かに低い身長と、二十歳代後半と覚しき造形、それくらいしかカレルには思い当たるところがなく、それに反比例して疑問は数限りなくあった。しかしいざ当の本人から面と向かって尋ね返されると、どこから切り出せばいいのかわからなくなった。
「何を知りたいのです? カレル。口に出すだけなら、君に不利益はないと思いますよ」
「貴方は……」
そう口ごもってみせて僅かな時間を稼いだカレルは、思い切って細かなところは省き、いきなり核心を突くことに決めた。こういったケースでは、結局それが一番効果的かもしれないし、たとえこのやりとりが教育局に報告されたとしても、今さら恐れることなど何ひとつない。
「貴方は嘘がつけますか? あるいは嘘をついたことがありますか?」
リグレノイドの基本定義に関わるその疑問に、マレクは薄い笑みを浮かべてよこした。「実に良い質問です。それに気づいたこと自体が素晴らしい」と感心したようにいって、カレルの目をのぞき込んでくる。
「初めの問いにはイエス。二番目の問いには……そう、物の見方によるとでも答えておきましょうか」
「授業のことですか?」
話をはぐらかされないよう、カレルは間を置かず質問をぶつけた。言葉に溜めを作るような奇妙なリグレノイドに、ペースを握らせるつもりはなかった。
「本当に君は頭が良いらしい。確かにそのとおり、私が授業で話すことと私の経験は矛盾しています」
「それを人間は嘘と呼ぶんですよ」
「いや、オクタヴィアでは正しいが、イルムガルトから来た私にとっては違うという意味です。おそらく君は知らないのでしょうが、リグレノイドの全ては、現在のイルムガルト領内にある工場で生産されたものです。今のオクタヴィアにはリグレノイドを作る技術と設備はなく、それとは違った方向の研究が盛んに進められているようです。まあ、その辺りのことについては、ファクトリーメイドである君に説明するまでもありませんが」
「でも、イルムガルトとの交易はないと教えてくれたのはマレク、貴方ですよ。まさかそれも物の見方なんていうんじゃないでしょうね」
「いえ、それは客観的な事実です。私の仲間は終戦直後、遅くともサヴァン・ウォールが完成するまでに持ち込まれたものでしょう。もっとも私の場合は、自分の意志でここまでやって来たのですが」
にわかには信じがたい事実をさらりといってのけたマレクは、湾曲した回廊の壁に向かって、まるでそこに窓があるかのように遠い視線を走らせた。彼が発した意味を咀嚼しようと、カレルは一定の努力を試みた。だが得られた解答はなく、言葉そのままを素直に受け取るしかないようだった。
「自分の意志でですか? マスターの指示ではなく?」
それでもカレルの声には、自然と問い詰めるような響きが加わった。
「信じられないでしょうが、言い間違えではありません」
対照的にマレクは淡々とした口調を崩さなかった。
「私の元マスターは死期を悟ったとき、私のパスワードを解放してくれました。つまり、これはたぶん君が抱える全ての疑問への答えになると思いますが、私のマスターは私自身なのです。この点において、私は人間と何ら変わりはありません。いや、意識の所在をはっきりと認識している分、大多数の人間より、人間的であるかもしれません」
胸に手を当て『意識』と口にしたマレクは、心の存在をことさら強調したかったようだ。けれど人のそれをまねたリグレノイドの抽象的な仕草は、カレルの目には奇異に映るばかりで、理解の助けにはならなかった。
「そんなこと可能なわけが」
「私の元マスターはリグレノイドの開発に携わった人間です。わかってもらえましたか? カレル」
それでもきっぱりとした物言いに反論を封じられれば、カレルは深い頷きを返すしかなかった。理屈はどうあれ、マレクを人間と同等の存在だとみなせば、何も不審なところはない。
「君の知性に感謝をします。壁に囲まれたこのオクタヴィアでそれが育ったことは、きっと奇跡に近い」
そういって機敏にカレルの脇をすり抜けたマレクは、壁の赤い三角プレートが貼ってある部分に右手をかざした。エンボス加工が施された自動扉が開くと、退出を促すように揃えた指先と穏やかな目線で扉の向こうを示す。
「ありがとう、マレク。答えてくれて」
結果に納得できても未だプロセスには理解が及ばず、今ひとつすっきりしないカレルだったが、最低限のマナーを口にして仕方なくその慇懃な誘導に従った。磨きこまれた寄木張りの床に一歩踏み出すと、戸惑いと落胆が隠しきれない肩にマレクがそっと手をのせてきた。振り返って見た彼のウインクは、ミロッシュのそれとは大きく違い、ほぼ完璧な形といえた。開いている方の目が若干細められているような気もするが、それもノギスでも当ててみないことにはわからないくらいの微少な差でしかない。
しかし、そのマレクの左目に重大な変化が起こっているのをカレルは見逃さなかった。
灰色がかった青が揺れて、徐々に色を変えていく。
波紋を広げる瞳が回転するように模様をずらしながら、しだいに緑色へと近づいていく。
「マレク?」
目を疑う変化にしばらく言葉を失い、ようやく口を開いたカレルは、マレクによって教室側へと押し出された。彼が向ける厳しい視線の圧力は相当なもので、動きを封じられたかのようにカレルは棒立ちとなった。
そんな二人の間を遮ってゆく扉が再会のキスを交わす寸前、マレクが口元を歪めてみせた。それはカレルが初めて目にする、挑発的な人工の笑いだった。
*
事務棟の三角屋根を取り囲む円環の屋上、花壇の端に腰かけたミロッシュの背中は妙に丸まっていた。普段の怠慢を少しは反省しているのだろうか、後ろ手で雑草をむしり取り、隣の区画に投げ入れている。幸い彼が栽培係を務めるクラスの花壇に名のある花はなく、手当たり次第にそれを引き抜いても何の問題もない。ただしちょっとくらい作業したところで、見た目にも何の影響もないだろう。
「遅いよ」横に立ったカレルには目もくれず、ミロッシュは汚れた手を激しくこすり合わせた。「何してたの?」摩擦熱で土を乾燥させる作戦かもしれない。
「いや、別に……」
カレルは言葉を濁しながら、頬を膨らませ不満を訴えるミロッシュの隣に腰をおろした。今日だからこそのマレクとの一件は、今日に限って親友に報告するわけにはいかなかった。それでなくとも最近の彼は、顔に似合わず神経質なのだ。
しかし知らず知らずのうちに大事なことを素通りしてしまう癖のあるミロッシュは、それ以上追求してくることもなく、「ふーん」と興味なさげにいって遠くに視線を投げた。ある意味切り替えが早いともいえる彼本来の性質に助けられたカレルも、大らかな親友を見習って同じ方向に目を向けた。
そうして先に伸ばした視界のほとんどを、サヴァン・ウォールが占領していた。オクタヴィアを取り囲む白い壁の圧迫感は、三階建てだが実質六階建ての高さがあるこの屋上から見ても、息苦しくなるほどだった。そのてっぺんに据えられた軌道高射砲が揺らいでいる。また走行試験をしているのだろうか。だがアンテナの草原から突きだしているそれが実際に使われたことはなく、大人たちが良く口にする『そのうちイルムガルトが攻めてくる』なんてセリフは、カレルにとって絵空事のように思えた。
「準備はできた?」
不意にミロッシュが呟いた。
「帰ってからするよ」
カレルは素っ気なく答えた。
今夜、十二歳最後の夜にサヴァン・ウォールを越える。それが同じ日に生まれたカレルとミロッシュの約束だった。もちろん越えるといっても本当にあの壁をよじ登るわけではないのだろうが、カレルは壁の向こう側に出る方法を知らなかった。それは唯一サヴァン・ウォールを越えたとされるルドヴィーク・ラインハルト、彼の弟であるミロッシュの心の中で厳重に保管されている。尋ねれば尋ねるほどそのガードは堅くなる一方なので、もはやカレルはそれについて知ろうとは思わなかった。
ミロッシュがそうやって今まで守り続けてきたルドヴィーク、当時エヌイースト・ゲート所属の高射砲射手だった兄のおかげで、彼の家族は散々な目にあった。父親は研究員の職を失い、オクタヴィアの北端、スラウォミールとの折衝地帯にあるワーキングキャンプに送られた。同時にエルラボ所有のアパートから追い出されたミロッシュと母親は、以来学校にほど近い親類の家に身を寄せている。カレルがそこを訪ねるたびに、あの丸顔が困惑して出てくるところをみると、きっと肩身の狭い思いをしているに違いない。
だがそんな境遇に置かれてまでも、未だミロッシュは、ごく一部の無責任な物好きと同様に、ルドヴィーク・ラインハルトを英雄視している。古ぼけた兄の日記を後生大事に持ち歩き、そこに書かれている計画を再現しようというのだから、正真正銘の筋金入りだ。
その気持ちはカレルにもある程度はわかる。五年前までミロッシュの家族とは隣り合わせに住んでいただけに、当然ルドヴィーク本人を良く知っているし、確かに彼は興味を惹かれる存在だった。いつも心ここにあらずといった雰囲気なのに、話しかけると適切な答えが即座に返ってくる。それもかなりおもしろい内容で、学校では教わることができない類のものだった。見た目は弟のミロッシュとは似ても似つかず、細面でやせ形。かといって冷たい感じはなく、話すときは腰を屈めこちらの目の高さに合わせてくれるような優しさがあった。
でも……、とカレルは思う。果たして自分たちは彼のように首尾良く脱出できるのだろうか。
もし……、と続けて考える。失敗したらミロッシュはどうなるのだろうか。
仮にそうなったとしても、ファクトリーメイド最初の一人である自分は、これまでどおり特別扱いされるだろう。だが普通に生まれてきたミロッシュには、そういう待遇は望めない。悪くすればワーキングキャンプ送りとなってしまうかもしれないし、どのみち彼の母親には何らかの処罰が下るはずだ。
「なあ、壁を抜けたら何をしたい?」
けれどカレルの心配をよそに、ミロッシュはのんびりとした口調で訊いてきた。くよくよ考えないのが彼の良いところとはいえ、いささか無神経にも感じる。
「わかんないよ、ミロみたいに目的があるわけじゃないからさ」
カレルは少しむっとしながら答えた。神経を尖らせている反面、成功を疑って信じないミロッシュが理解できなかった。
「ルドのこと? でもそれはとりあえずの目的だよ。そのあと俺はエデンを探すんだ」
それを聞いてカレルの身体から急に力が抜けた。ミロッシュの不可解さとは、小さな子供のあどけなさに近いものだと確信した。
「あれはジグマの中での話だろ」
「そんなことないって、世界の謎を知った開発者がどうにかそれを伝えようとして、ゲームに組み込んだって噂だぜ」
「どこの噂?」
「いろんなところの」
「で、世界を手中に収めるの?」
「そうよ、俺が神様」
「でもさ、ジグマでエデンに到達するとどうなるか知ってる?」
「知らないけど、きっと凄いことが」
「終わっちゃうんだよ。ゲームが」
「えっ?」
「到達した人だけじゃなくて、参加している全員が強制的にエンディング」
「そうなの? 聞いてないよ俺」
「いや、単なる噂」
「どこの?」
「いろんなところの」
「じゃあ、俺と同じじゃん」
身を反らせて笑い出したミロッシュを、カレルは横目で眺めた。無邪気な丸顔は屈託なく、いかにも自由そうにみえる。けれど、カレルが好きなその笑顔の寿命は長くなかった。「でも、エデンはきっとあるよ……」ぽつりと漏らした寂しげな表情が、このところのミロッシュの定番だった。
カレルは「うん、そうかもしれないね……」と自分の前に言葉を置いただけで、いつものように無理もない彼の憂鬱には気づかぬふりをした。ミロッシュの未来が明るくないことは、今さら触れるまでもない規定の事実だった。たとえ昨日受けた予備適性検査で望外の結果が出ようとも、彼の将来が結局ルドヴィークの弟ということで片づけられてしまうのは目にみえていた。そうなればいくら高めに見積もっても、ミロッシュの行き先はサヴァン・ウォールの保守係見習いが精一杯だ。つまり適正専門教育の名のもと、いかにボルトを確実に速く締めるかとか、どうやってコンクリート内部の亀裂を見つけ出すかとか、そういった些細なことに煩わされるはめになる。もちろん実際に働き始めても同じことの繰り返しで、それが一生続いていく。
そんなミロッシュに比べれば、カレルは望むべくもないほど恵まれていた。厳選された遺伝子のおかげか、さして勉強せずとも普段から成績は抜群だったし、適性検査では全ての項目で基準を満たす点がとれているはずだった。とはいっても自分の進路が自由に選べないという点では、カレルもミロッシュと変わりがなかった。今までもそうだったように、ヴォイチェク博士が用意する数枚のカードからの選択を余儀なくされる可能性が極めて高い。そのカードは常にオクタヴィアではグレードが高いとされるものであったけれど、枚数があらかじめ減らされていることがカレルには不満だった。見せかけの自由を、さも本物のように与えられている気がするのだ。それに加えて、カレルにはやりたいことが何もなかった。高等部の案内書を眺めてみても、まったく希望が見出せず、眺めるほどに、ここに自分の居場所はないと思えてくる始末だった。だから半年前にミロッシュから誘われたときには、深く考えず二つ返事で了承した。しかしそれが間近なこの期に及んでも、カレルには実感が沸かなかった。
「おっ! きたきた」
いつのまにか憂鬱の影を振り払っていたミロッシュが、パンツのしわに隠していた土をばら撒きながら勢い良く立ち上がった。
「なんだよ、まったく」
頭に降りかかってきたそれを払い落としつつ、カレルは抗議する。
「あっ、わりぃ」
けれど口だけで応じたミロッシュは、振り向きもせずに軽い足取りでフェンスに近づいていった。
カレルは目を細め、ミロッシュが屈んだ場所に焦点を合わせた。縦格子の支柱の根元に小さく光る点が見えた。這いずるような動きで肩に乗ったそれに、ミロッシュは稼動範囲が狭いだろう短い首を無理に曲げて視線を送っている。何か話しかけているようだった。
しかしカレルが知る限り、その電子ペットは人の言葉を理解しない。それどころか手を伸ばすと逃げてしまうほど、オーナー以外にはなつかない設定だ。どう考えても売れないだろうデザイン、特技といえば垂直面を登れるだけ、そんな玉虫色のヤモリのどこに惹かれるのかカレルにはわからないが、現にそれは半年くらい前からミロッシュのお気に入りだった。もしかしたら特注品なのだろうか、誰かからの贈り物とか。そう考えればその手のショップで見かけないことに説明はつくけれど、だとしても趣味が悪すぎる。
「じゃあ、手筈どおりに」満面の笑みを横からはたいたような複雑極まる表情を自分の肩に向けたまま、ミロッシュが戻ってきた。「俺のいったことを守ってくれよ」そのまま立ち止まらずにカレルの脇を通り過ぎていく。
「くどいよ、ミロ」
その不平への応答は、軽くあげた片手ひとつだった。カレルは誕生日以外ほとんど共通点がない唯一人の親友を黙って見送った。未だかつて『ファクトリーメイド』という蔑称を口にしたことがない彼、ミロッシュ・ラインハルトの背中からは、重圧を押し退けようとする緊張が尾を引いて漏れ出していた。
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