from EDEN

第1章 / 感情の成立(2)



 ジークフリートは首のない片翼半裸の彫像を見上げた。結局このオブジェクトは何のトリガーでもなかった。そいつの足元を八つ当たり気味にドゥームカッターでなぎ払う。しかしここ一週間で得られた結論どおり、派手な火花が散っただけで、いとも簡単に光の刃は弾かれた。
 やはり何も起こらない。少し心残りな気もするジークフリートだったが、時間が迫っていることもあり、無駄なアプローチはあきらめて、霧深い森の奥を目指すことにした。ガラスの破片が残る天窓から射す光が、朽ち果てた信者席の間を行く彼の強靱な身体を浮き立たせた。ノイズのような塵がまとわりつく漆黒の甲冑には、傷ひとつもついていなかった。
 鋳鉄の枠だけが残った扉を押し開け表に出ると、早速エネミーアラームが鳴った。音程が高く、音量は大きい。すなわち右方向のごく近いところに敵がいるという証だが、ジークフリートはそれを迎え撃とうとはせず、生い茂る雑草を淡々とかき分けていった。
 やがて断続的な電子音がすき間なく連なり、咆哮をあげて一匹のワイルドベアが襲いかかってきた。それでも歩を緩めないジークフリートは、振りおろされた鋼鉄の爪をまともにくらった。だがダメージはまったくない。普通の者ならひとたまりもなく死ぬだろうその一撃も、彼にとってはハエにたかられると変わりがなかった。
 けれども周りを取り囲まれれば話は別だった。何匹集まろうとも危険はないが、視界が利かず歩きづらい。人間としては並外れて長身なジークフリートといえども、ワイルドベアに比べれば子供同然なのだ。
 仕方なくジークフリードはドゥームカッターを抜いた。ぶうぉんと鈍い音をさせて光の輪が広がり、腰から切り離されたワイルドベアたちの上半身は放射状に舞った。糸を引いて垂直に噴き出した黄色の代用血液が辺りの霧に溶け込むと、機械仕掛けの熊の死体は瞬く間に溶けて草の波間に染みこんでいった。
 その跡に浮かぶガラクタには目もくれず、ジークフリードはクリアになった視界を左に転回した。空まで覆い尽くす木々のすき間からエデンが見えた。一方のテーブルを逆さにして重ね合わせたような形。白く継ぎ目のない巨大建造物は、四本の円柱に支えられ宙に浮いていた。
 だがその出入り口は、天を突く柱の最上部にあった。付近の高台からそれは確認できても、実際に行き着く道は見つからなかった。そこでジークフリートは礼拝堂の怪しげな像を調べたのだが、思うような結果は得られず、そして時間がない彼は、これ以上調査を続けることができなかった。
 ジークフリートはエデンを仰ぐ遺跡の狭い石段をのぼった。崩れかけた急な勾配の上には、小さなステージがあった。そこでおもむろに全ての装備を外していく。最後にドゥームカッターを投げ捨てた。
 冒険を終わらせるつもりの彼には、ここほどお誂え向きの場所はなかった。身につけていた防具は、誰もが欲しがるような貴重品だったし、リアクターブレード中レアレベル最高のドゥームカッターにいたっては、世界に一本しか存在しないという。そんな物をギルドの連中の前に置いていったら、きっと争いは避けられないだろう。しかしこの遺跡の石段は幸いなことに一人分の幅しかない。つまりは早い者勝ちとなるわけだが、味方同士で斬り合うより、よほど穏やかな決着方法だといえる。
 そうして数年ぶりに裸同然の姿となったジークフリートは、もう一度エデンを見上げると、固定装備のリスト型デバイスを操作した。やたらと装飾されたコントロールパネルから自殺コマンドを選択する。通常それは生まれ変わるとき、優れた資質や培った経験などを無駄にしないために用意されている。しかしジークフリートは、最初に現れたメニューから[継承]ではなく[拡散]を選んだ。すなわち彼は新しい人生を放棄し、戦士として頂点を極めた自分のスキルを広く分け与えようというのだ。確かにその行為は、客観的にみれば正しいといえなくもない。自分自身にだけ受け継ぐのならば数百分の一に減らされる数値も、[拡散]を選んだときに限り、総量でみれば維持が可能だ。世界的規模からすれば、彼の能力は全て還元されることになる。
 そんな英雄的行為を妨げるように、これでもかと出てくる確認画面を、ジークフリートは迷いなく[OK]でクリアしていった。やがて表示された今までとは違う文面、なにやら感謝を示すようなそのメッセージも了承すると、彼の身体の表面に光の粒が浮いてきた。それは徐々に集まり、最後にはぼんやりとした人の形となった。まるで初めてクレヨンを握った子供が描いたような人型の光が、引き剥がされるシールのごとく、ゆっくりと身体から離れていく。
 そしてジークフリートはスローモーションで倒れた。ひらひらと舞う彼の写し身は、エデンの入口に届くほどまで高く上がると、急に物凄いスピードで東の空へ飛び去った。
 その直後、世界は闇に閉ざされた。


 カレルは鼻先のスクリーンを跳ね上げ、コントローラーの電源を落とした。そして、暗くなったメインディスプレイを名残惜しそうに見つめている小さな背中に目を留めた。何故だかジグマ≠始めると、決まって彼は机の上によじ登り、真正面から画面を凝視するのだった。
「ティオ、こっちにおいで」
 データグローブをはずして差し出した手に、その薄茶色のネズミが飛びのってきた。オーナーであるカレルの意向を探ろうとしてか、ビーズのような黒い瞳を瞬かせる。
「お別れなんだけど……」なめらかな毛並みの感触を確かめながら、カレルはそっと囁いた。「君にはわからないよね……」彼を置いていくことは、自分の意志でなくミロッシュの指示だったけれど、ここでそんな言い訳をしても始まらない。
 溜息をひとつ吐いて立ち上がったカレルは、部屋の隅に置いてあるティオの家、柔らかい彼には不釣り合いなクレードルの前に手をおろした。「ちょっと出かけてくるから」ヴォイチェク博士から贈られた物のなかで唯一カレルのお気に入りとなった電子ペットは、設定どおり自らプラスチック製のホルダーに身体を押し込めた。
 そうしてゆっくりと閉じていくティロの瞼が山なりの弧を描く細い線になるまで見届けてから、カレルはナイロンのワンショルダーバッグを床から拾い上げた。それをたすきがけに背負い、改めて自分の部屋を見回した。正確にいえば、もと自分の部屋である。今はこの家全てが、カレルひとりのものだった。
 もちろん以前は両親もここに住んでいた。身元が明かされない種子提供者ではなく、エルラボに勤める子供のできない夫婦がカレルの親だった。しかし三年前、できないはずの子供ができてしまった。それは許されないことで、契約に従えばその子供は始末するしかなかった。当時十歳だったカレルは、途方にくれる両親とまだ見ぬ妹を助けるため、ヴォイチェク博士に嘆願した。その訴えは特別に認められたが、結局ただの同居人でしかなかった彼らは、子供であるカレルに深々と頭を下げ去っていったのだった。
 それ以来カレルはここで一人暮らしを続けている。新しい親をあてがわれそうになったときには、ヴォイチェク博士を親権者に立てることで、どうにか事態を切り抜けた。親といいつつもやけに気を使ってくる人間と暮らすのはもうこりごりだったし、エルラボに入り浸りのヴォイチェク博士なら干渉してくるといっても限りがあった。それに食事や洗濯など身の回りのことなら、隣に住んでいるゾフィアが面倒をみてくれた。
 その曲がった腰をさすりながら、しわと見分けがつかないほど落ちくぼんだ目で様子をうかがってくる老婆。彼女に返す二枚の皿を手にして、カレルはアパートの中廊下に忍び足で出た。音をたてないように静かにドアを閉め、手にした皿もそっとゾフィアの部屋の前に置く。何もかもがミロッシュの指示どおりだった。彼にいわせれば、「どこで見張られているかわかんないだろ」ということらしい。
 それがどれほど真実を言い当てているのかカレルにはひどく疑問だったけれど、親友との打合せにしたがって階段を一階までおりると、何の表示もない鉄製の重いドアを開けた。吹き抜けのエントランスホールには向かわず、そこを通って表に出るのがミロッシュの作戦だった。
 カレルはポケットから懐中電灯を取り出し、廊下より一段低いコンクリートの部屋を照らした。台座にのった赤いポンプが手前に並び、その奥で象牙色の樹脂製タンクが視界を遮っている。錆びついたステップをおり、板チョコレートを組み合わせたような外観のタンクを回り込んだ。スロープの先にミロッシュがいっていた扉があった。天井にまで及ぶ巨大な引き戸の表面に、常識的な大きさのドアがついていた。
 手にしたライトの明かりを消して、その灰色の鉄扉を押し開けようとしたとき、カレルは微かな気配を感じた。
 目を閉じて、神経を研ぎ澄ます。
 身を固くして、それの源を探る。
 しかし振り返ってみても、ドアの隙間から僅かに漏れてくる光の中に浮かび上がるものはなかった。
 思い過ごしとあきらめて、三日月型の取っ手を握り直す。
 再び気配が動き出した。
 今度は明確に感じる。
 低い位置からじりじりと迫ってきている。
 ポケットの中でライトの先端を回した。カーゴパンツの腿が朱色に光る。
 振り向きざまそれを抜き出した。足元から光の円を走らせる。
「ティオ?」
 十フィートほど先で、スポットライトは薄茶色の毛並みを捉えた。這いつくばっていた電子ネズミが、身を起こし走り寄ってくる。
 カレルは腰を屈め、戸惑いながらもティオを受け入れた。ただしいつも彼に見せている笑顔は、どうしても浮かんでこなかった。
「なんで? 『出かけてくる』は命令文だったでしょ? 君のオーナーは僕じゃないの? どうやってここまで来たの? その経路を君に教え込んだのは誰? 誰の命令でここまで着いてきたの?」
 訊くまでもないことをまくし立てるカレルをよそに、手の中のティオはのんびりと身づくろいを始めた。しかしどんなに巧妙にプログラミングされた仕草にも、もはやカレルの心は動かされなかった。
「君が見張りだったんだ……」
 思わず力を込めそうになる右手。それをどうにか押さえ込んだカレルは、下手でティオを放り上げた。身体を丸め玉のようになった電子ネズミは、狙いどおり頭上を巡る横引き配管の上に着地した。
「ティオ、君の役目はここで終わりだ。だからこれからは自由に生きるんだよ。わかった? これは命令だからね」
 そう叫んだカレルは、軋むドアを勢いよく開けて、裏通りへと飛び出した。むろんそういった行動は、ミロッシュから固く禁じられていた。


     *


 地下鉄に乗るときも、カレルはミロッシュの言いつけを守った。ヴォイチェク博士からもらったフリーパスは使わずに、初めて切符を買って乗車した。バックの中に入れっぱなしだった『生命科学研究所』の文字が浮かび上がるホログラムカードは、裏通りに出てすぐに捨てた。あの薄っぺらいプラスチックの欠片さえ、何らかの監視装置であるように思えてきたからだった。
 今や親友のいうことを信じ始め疑い深くなったカレルは、もうすぐ日付が変わろうとする車内に伏し目がちな視線を巡らせた。こんな時間でも意外に乗客は多く、緑色の作業着が並べて置かれたように毛羽立った赤いシートを埋めていた。どれも翳の差した個性のない顔。一様にうつむいていて、ひとりきりの子供を気にするふうもない。カレルは安堵の溜息をそっと漏らし、勤務前から疲れている青果工場の夜勤者たちに背を向けた。ドアに寄りかかって、小豆色の車体を掠めていく保安灯を数え始める。エルラボの最寄り駅の五つ手前の黄色い明かりは、やはり切れたままで放置されていた。
 カレルがそれを見つけたのは半年前だった。以来、光の帯が途切れるその一点を、憂鬱な気持ちを振り切るための合図としてきた。毎週末エルラボに出向き様々な検査を受けるのは、はっきりいって気が進むものではなかった。
 それでもそのうんざりする用事が、全てのファクトリーメイドに対して平等に課せられているのだったら、少しはあきらめもついただろう。けれど同じアパートに住む兄弟たち、つまりカレルに続いて一号機のアクリル水槽から生まれてきた連中が、年に二度しか検査を受けていないと知れば、「君は特別だからね」というヴォイチェク博士の説明も、その場しのぎのでまかせにしか聞こえなかった。いくら自分が、けがの直りが早いとか、病気をしないとか、そういった点において他のファクトリーメイドたちより優れているといっても、毎週末検査をする必要はないだろうし、だいたいそれで何かの成果が出たという話など今まで一度も聞いたことがない。
 しかしそんな苛立ちも、夜明け前には過去のものとなるはずだ。カレルは二度と見ることがないだろうプラットホームの写し絵を、嵌め殺しの窓の中に眺めた。発車のベルが鳴って反対側のドアが閉まり、連結部をぎくしゃくと伸ばし終えた列車が緩やかに加速していく。振り返ると輪郭を露わにした空間は、減光された車内からはやたらと眩しく見えた。けれど後ろに飛び去っていく青白い光の中に人影はなく、無駄な明るさは寒々しいばかりだった。
 やがて壁際に並ぶベンチも連続した一枚の板となり、行き先表示板の文字も読み取れなくなった。風圧に揺れるドアの向こうはスピードに引っ掻かれ、しだいに形をなくしていった。それなのにカレルの目には、ホームの端に立っていた人物が揺らぎもせずに映った。エルラボ専用ともいえる階段の前に、しわだらけの白衣をまとったサンダル履きの男。腕組みをしたヴォイチェク博士は乱れる髪も気にせず、いつものように冷たい視線をこちらに向けていた。
 彼の前を一瞬で通り過ぎたカレルの網膜には、だがその姿がしっかりと焼きついた。観察に特化した温度ない瞳が自分を捉えた可能性は、瞼をきつく閉じても消せはしなかった。


     *


 緑色の作業着に混じって、カレルは改札を抜けた。そのまま青果工場を取り囲む砂岩ブロックの塀沿いを歩く。保護浸透剤を含んだ高い塀の表面は、外灯の明かりを鈍く反射していた。3Dゲームのワールドマップにも似たその模様の上を、項垂れた労働者の歪んだシルエットはのろのろと進んでいった。
 地下鉄の中でもそうだったように夜勤者の群れは一向に口を開かず、カレルは自分で紛れ込んだというより、なにやら彼らに運ばれているような気がした。しばらくして青臭い袖口が一斉に動きポケットからIDカードを取り出すと、思わず首を竦めてしまった。
 それでもカレルは絶好の機会を逃さず、素早く車道側に身を寄せた。背の高い労働者たちの影を渡り歩き、警備員が目を光らせている青果工場の入口の前を難なく通り過ぎた。そして歩を速め、暗闇に消える塀を回り込んだ。あと角を三つ曲がれば、ミロッシュが息を潜めて待っているはずだった。
「なんだよ、お前。あっち行けって!」
 しかし最後の曲がり角の手前、牛や豚が何故か笑っている精肉店のシャッター、目印となるそれを横目で確認しているうちに、ミロッシュの怒鳴り声が聞こえてきた。急いで駆けつけてみると、積み重ねられたブリキのペール缶の上に彼は不安定な姿勢で立っていた。その足元で低く構えている、毛が半分抜け落ちたような犬の唸り声は、くたびれた外見からは想像もつかないほど迫力があった。
「あっ、カレル」
 といってこちらに顔を向けた途端、ミロッシュは派手な音をたてて崩れ落ちた。いつものことだが、こんなときでも彼の詰めは甘かった。
 口に人差し指を当てたカレルは、一度後ろを振り返ってから、ペール缶にいだかれているミロッシュに近づいた。両の手のひらを上に向けて、率直な感想を伝える。「大丈夫?」勘違いされる恐れを感じ、平滑なイントネーションに徹した。
「全然……、平気……」
 あれだけの音が出たのだから、てっきり全部空だと思っていたのに、中身の詰まったペール缶もかなりあった。カレルがそれをどかすと、まるでポケットを着たようなミロッシュの身体が現れた。半袖のTシャツに、ナイロンのベスト、それにカーキ色のハーフパンツ。全般に気温無視の清々しいコーディネイトだったが、ベストとパンツには収納力重視の傾向がうかがわれた。ある意味戦闘的なそのカッコのせいで、彼はバックを持っていなかった。
「寒くないの?」
 そんな親友を見て急に寒気がしてきたカレルは、パーカーの襟元をかき合わせた。
「えっ? ああ、今ので暖まった」
 どうにも憎めない笑顔でミロッシュは答える。しかしパンツの腿で汚れを拭っていた彼の手が不自然に止まった。不意に敵意むきだしの視線がカレルの脇腹辺りを通り過ぎていく。
「このバカ犬が!」
 拡散するミロッシュの唾から顔を背けたカレルが後ろを見ると、先ほどの騒ぎのせいで逃げ出したとばかり思っていた老犬が、いつのまにかすぐそばまで来ていた。何が気に喰わないのか、また低く唸り始める。
「そんなに怖がることないのに」
 カレルは腰をおろし、艶のない灰色の毛に手を伸ばした。獣くさい埃がむわっと舞った。
「そうだ、この臆病者が!」
 気合いだけで生きているような痩せた犬の首輪は、いつ嵌められたのかわからないくらいにサイズが小さく、薄汚れた身体と一体化していた。カレルはその下で押しつぶされている毛に空気を送り込もうと、やや強引に手を捻り入れた。
「違うよ、ミロのことだよ」
「えっ? 何で俺なの?」
 けれど首輪の馴染み具合は想像以上で、あきらめたカレルはそれを外しにかかった。
「それに、この犬はバカじゃないって」
「どうして? やたらと吼える犬は」
「やたらじゃないよ。だって僕たち、不審者だもの」
「ああ……、いわれてみれば……」
 固くなっていた皮のおかげで意外と手間取ったが、どうにか首輪は外れた。カレルは犬の全身を洗うように、隅々まで荒っぽく撫でた。埃を叩き落としているというよりは、自分の手に汚れを写し取っているような感じだった。
「でもよ、何か納得いかねえよな」本来の白さを若干取り戻した老犬を横目で牽制しながら、ミロッシュが口を尖らせた。「何で俺には唸って、お前には尻尾を振るわけ?」
「それはミロが怖がるからだよ」カレルは真っ黒になった手を持て余しつつ立ち上がった。「生き物はそういうのを敏感に感じ取るんだから」
「俺はビビってなんか」
「わかってるって。犬に吼えられたら困るもんね」
「そ、そうだよ。こいつのせいで、誰かに見つかったら」
「だから、早く行こうよ」
 カレルは頬の曲率で不満を示すミロッシュの背中を押した。もちろん押すだけではなく、多少の摺動も加え、犬くさい汚れの負担を願った。目の粗い黒のナイロンは、そういった用途に打ってつけだった。
「じゃあ、ここからはなるべく無駄話はなしってことで」
 もっともらしいことをいう親友に見られないように、カレルはこっそりと笑った。急に真面目な顔つきになった彼の小刻みなストライドに、ゆったりと歩調を揃えていく。
 カレルがいい加減に積み上げ直したペール缶の上では、不充分な体勢をものともせず、早くも老犬がうとうとし始めていた。マレクの話によれば、治安が悪い敗者たちの溜り場。金網の向こうに聳え立つサヴァンウォールのせいで昼間でもほとんど日が射すことがない路地は、雨が降ったわけでもないのに、まるで重油を撒き散らしたかのごとく、ぬめぬめと光り、そして滑りやすかった。


     *


 ようやく打ち明けられた作戦は、大胆にもほどがあるといった手合いのものだった。
「本気で言ってるの?」
 カレルはミロッシュから受け取った電動ドライバーをバックにしまいつつ、しかし顔は上げたままで訊いた。サヴァンウォールの中を通っていくなど正気の沙汰ではない。もしミロッシュがルドヴィークの弟でなかったら、力ずくでも彼を引っ張ってこの場から立ち去るところだ。
「えっ? ああ」
 けれどミロッシュはちらっとカレルの方を見ただけで、また人気のない交差点の先に視線を戻した。臭気を垂れ流すダストボックスの陰から見送ったトラックは、これで四台目だった。
「大丈夫だって、きっと上手くいくさ」
 いまひとつ信用ならない希望的観測に、カレルはあきらめ混じりの覚悟を固めた。これから目指すところが警備兵の巣窟だということはミロッシュも充分わかっているだろうし、今さら自分だけ逃げ出そうとは思わない。ただし作戦の基本方針である「全開でダッシュ」に、かなり心細くなったのは否定しようもなかった。
「あれだ!」
 かすれた息で叫んだミロッシュが腰を浮かせ、同時にカレルは深い溜息を吐いた。五台目のトラックはお待ちかねの幌つきだった。
 気を抜くとすぐに液状化しそうな決意を胸にダストボックスの陰から抜け出したカレルは、実際の速度より二倍は速そうにみえるフォームで湿った空気をかき分けていくミロッシュに並んだ。揺れる視界の中、交差点で減速したトラックのテールランプだけが鮮明だった。ウインカーを点滅させるそいつのあおりに右手をかけ、左手でミロッシュのベストをつかみ上げた。ボール紙のような柔軟性のないシートをくぐって、カレルはミロッシュを巻き込みながら砂の浮いた荷台に転がり込んだ。
 見上げた細いパイプの骨組みは飾りのようで、ごわごわとした幌はそれ自体で形を保っていた。カレルたちは無言のままそのすき間に腕を突っ込み、外側で幌を止めているゴムベルトを探り当てた。後方のベルトをかけ、右側面のベルトを外していく。滞りなく作業を進めるカレルに比べ、ミロッシュは随分と手間取っているようだった。顔の筋肉以外は割と器用な彼であっても、腕の長さはいかんともしがたいのだろう。
 それでもカレルがノルマを超える働きをしたおかげで、余裕をもって脱出経路の確保は終わった。カレルは腕時計を確認したあと、荷台に積み上げられているプラスチックコンテナに背中を預けた。ふと気づくと、暗がりの中からミロッシュが親指を立てて合図を送ってきていた。そして不意に鼻水でも出てきたのか、彼は関節があるのが不思議なくらい短いその指を鼻先に当てた。
「俺がボスだ!」とでもいいたげな親友の仕草に、カレルはあえてツッコミは入れず、素直に同じポーズを返した。予定どおりの進み具合とはいえ、ふざけている時間はなかった。速度を緩め何度か発停を繰り返したトラックは、すでに青果工場の門を通過して、荷さばき場に向かっていた。
 ほどなく、未だ内燃機関だけで動いている旧式のトラックが、ぶるっと身を震わせた。バックブザーが鳴り、進行方向が変わる。カレルとミロッシュは加速度が反転する瞬間を見計らって、幌のすき間から身を滑らせた。周囲を確認することもなく、一気にトラックの右後方、突き出たプラットホームの下に潜り込む。その立ち上がり部分にある吸気口の金網に張りつき、互いに取り出した小型の電動ドライバーを、錆びが浮くネジの頭に強く押しつけた。


     *


 ディーゼルエンジンの排気臭がこびりついた吸気ダクトの中を、カレルはミロッシュに続いて進んだ。懐中電灯を向けた目と鼻の先で、肉づきの良い尻がリズミカルに揺れている。ゴムボールみたいな身体は、こういった場所に適しているのかもしれない。埃を巻き上げながら淀みなく移動する四つんばいの親友に、カレルは穴ぐらに棲む勤勉な小動物を思い浮かべた。
 合流地点をいくつか通り過ぎ、ダクトの断面積が二倍ほどに広がったところで、そのふくよかな尻が動きを止めた。側面の点検口にライトをあてたミロッシュが、煤まみれの鋳物のハンドルを回す。ちゃちにみえるブリキの扉は意外と重いらしく、身体をぶつけてそれを押し開けようとする。そうして数度に渡る攻防のあと、突然扉が開き、支えを失った彼は頭から表へ転がり落ちていった。それに及んで親友が負圧と戦っていたことを知ったカレルは、吹きつけてくる風に顔をしかめつつも、悠々とコンクリートのフロアに降り立った。
「痛っ……」
 額をさすりながら呻いている足元のミロッシュに手を差し伸べながら、カレルは辺りの様子をうかがった。機嫌が悪そうに唸るモータの音と、滑り気味なVベルトの嘆きが反響する機械室には、幸いにも人の気配はなかった。相変わらず立ち直りの早いミロッシュが起き上がって、ここで間違いないと凛々しい表情で頷く。その赤く擦りむけた額に、こみ上げてくる笑いをカレルは懸命に押し殺した。
 そんな相棒の努力を知ってか知らずか、一層胸を張ったミロッシュは右手の小さな鉄扉につかつかと歩み寄った。ふっくらとした手が何の躊躇いもなく扉を引き開けると、時間と空間を錯覚しそうな眩しさが唐突になだれ込んできた。ミロッシュの後ろ姿が一瞬にして影絵となり、つんと立った彼の黒髪、色は違えどそれに良く似た風景がカレルの視界に広がった。日光代わりのナトリウムランプに照らされた水耕栽培の棚田は、目を細めたくなるほど強く輝いていた。
 その季節無視の萌葱色に紛れ低い姿勢で走り出したミロッシュを、カレルは苦労しながら追いかけた。長い脚が災いして、もとより地上高が低い親友に遅れをとった。それでも絡まりそうになる両脚を辛抱強くコントロールして、床から二フィートほど持ち上げられた棚田と、腰から上がガラス張りになっている壁の間を駆け抜けた。どうにか部屋奥の扉の前までたどり着くと、弾む息を潜めたミロッシュが待っていた。僅かな先着がもたらした余裕の感覚的拡大を狙ってか、彼の顔には慈悲の笑みらしき表情が浮かんでいた。
「準備は良いかな?」
 良いも何もないだろうと思いながらも、カレルは目の前の引きつったえくぼに右手をあげて応えた。満足そうに上下する丸顔に恨めしげな目線を投げかけ、ドアの脇に身を寄せ屈んだ。その無言の抗議がお気に召したらしいミロッシュが、にやりと笑い、姿勢良く立ち生えている稲の根本からプラスチック製の筒を引き出した。ケーブルにつながれたセンサらしきそれを見せびらかすように振ってみせてから、三個目のポケットでやっと探し当てたライターの炎を筒の先端にかざした。そして壁際に据えられている制御盤の一点が赤く光るのを待って、彼は元の位置にセンサを戻し、満面の笑みでカレルの隣に滑り込んできた。
 するとものの数秒で二人の鼻先にクリーム色の扉板が突きつけられ、対応の早さとは裏腹にのん気な歩調のサンダルが現れた。壁と扉に挟まれたタイトな空間からカレルたちが見つめる中、緑色の作業服を着た痩身の男は、棚田にそっと指を浸し、心持ち首を傾げた。壊れ物を扱うようにおずおずとセンサをつまみ上げ、人工の日差しに晒しながら、ぶつぶつと独り言を唱え始める。
 カレルはミロッシュに続き、感度が鈍そうな作業員の背後を素早く、しかし慎重にすり抜けた。一足で狭い廊下を横切り、監視室と覚しき小部屋に入る。二台のモニターをのせた机、かけっぱなしのテレビ、煙草の灰が散らばるテーブル、それらを左右にかわしながら、白いカーテンで区切られた一角に近づいた。
 道すがら壁に立てかけてあったバールを手にしたミロッシュが、その黄ばんだカーテンを捲った。しわくちゃなシーツに覆われたパイプベッドの脇で、扉とはいえないほどの簡素な鉄板がコンクリートの壁に張りついていた。鍵はかかっておらず、二人は立つのもやっとなほどの狭い空間に身を押し込めた。照明の類はなく、扉を閉じると何も見えなくなった。
 すぐさま懐中電灯を取り出したカレルは足元を照らした。銀色の紙と白い金網に覆われた配管が何本も寄り添うそのつけ根の床に、早速ミロッシュがバールを突き立てる。油圧機械を思わせる正確な動きは、二枚重ねの分厚い石膏ボードを難なく葬り去った。ぽっかりと四角い口を開けた暗闇へ、カレルとミロッシュは配管を伝い降りていった。
 それを三回繰り返したところで、今までとは違う雰囲気の場所に出た。縦引きの配管は床近くで直角に折れ、壁の裾に消えていた。その壁もコンクリートではなく、目地材が不様にはみ出すレンガ積みだった。
 カレルはミロッシュから受け取ったバールで、白い粉が吹いている鉄扉をこじった。掛け金は簡単に外れたが、皮膚病のごときざらついた感触の扉は押しただけではびくともしなかった。けれどもバールの先で捉えた鉄板の端はことごとく崩れ落ち、カレルの働きは無駄になるばかりだった。
「代わろうか?」
 今やバール使いのスペシャリストともいえるミロッシュが嬉しそうにいった。互いの息がかかるほどの狭い空間で、強引にカレルと入れ替わろうとする。
 その進撃を肘で食い止めたカレルは、意地になって深くバールを差し込んだ。これまでにない手応えに歯を食いしばって力を込めると、がたんと音がしてあっけなく扉が傾き、負荷をなくしたバールが痺れた手から滑り落ちていった。
 カレルはミロッシュに背中を押しつけ、忌々しい鉄板を思い切り蹴飛ばした。千切れかけたヒンジでどうにか自身をつなぎ止める扉のすき間から、かび臭い空気が漏れてきた。それに渾身の一撃を加え完全な視界を確保してから、先ほどのミロッシュの申し出に断りの合図を送った。
 立てた人差し指を軽く左右に揺らしながら一歩踏み出したカレルの横を、ミロッシュの不器用な口笛が通り過ぎていく。音色というよりは風の音に近い吐息は、アーチ型の天井の効果で思いのほか澄んで聞こえた。
「まるでジグマだな」
 ミロッシュの背中越しの呟きに、カレルは内出血した手をさすりながら「ああ」と曖昧に同意した。きめの粗いレンガに囲われたセピア色の通路は、確かに見慣れた光景であった。しかし、だからこそ不安がこみ上げてきた。ジグマ≠フ地下迷宮でミロッシュが迷子になったのは一度や二度ではない。救出隊よろしく毎回その尻拭いをしてきたカレルは、親友の方向感覚に深い疑念を抱いていた。
 けれど現実の世界では事情が変わるらしく、カレルの心配はしだいに薄らいでいった。観光客のような足取りで緊張感なく進むミロッシュが、一定の方向を目指していることは確かだった。それに迷わせるために作られたゲームのダンジョンと違い、保安灯のまばらな明かりが逆にほっとさせてくれる地下通路に複雑な分岐はなかった。ミロッシュのために最適化されたようなそこに曲線はなく、また交差も全て直角だった。


     *


 通路を塞ぐように渡された二本の鎖の間をくぐり抜けると、それまできょろきょろと辺りを見回していたミロッシュの頭が下がった。ぴったりついてこいというように、後ろに伸ばした手をひらひらと振っている。足元の感触で親友の意図を察したカレルも、彼に倣いいつでも走り出せるようにやや前傾姿勢をとった。鋳物のカバーに守られた年代物の幽光が映し出すレンガ敷きの通路。滑りやすかったそこに、はっきりとした筋が刻まれていた。黒ずんだ苔のようなものが道を開けている原因は、人の往来以外に考えられなかった。
 一息に駆け抜けたい気持ちを押さえ込み、踏みしめるようにゆっくりと歩く。そんな時間は永遠にも長く感じられた。緊張は互いの間を行き来するうちに増幅され、抑え切れないほど膨らんでいく。
 こんな状態では、いざというときに足が竦んでしまうかもしれない。カレルは意識して深く呼吸をした。多少だが、肩の力が抜けた気分になる。しかしそのとき、前を行くミロッシュの身体がぴくんと震えた。吐き出していた息を思わず飲み込んだカレルは、立ち止まって片足を後ろに引いたミロッシュの横に並んだ。
 全身をセンサにして親友のそれと同調させると、カレルの耳にも金属がこすれ合うような音が聞こえた。一定のリズムで近づいてくる。カレルはミロッシュに視線を送り、彼の覚悟を確かめた。背を向けて逃げるという選択肢はない。後ろを振り返ったとしても、五十ヤードに及ぶ逃げ場所のない直線が続いているだけだった。
 前方を見据えたままのミロッシュが、首を右に二回振った。目を向けない彼にわかるように、カレルは大げさに頷く。スタートの合図はいらなかった。同時に吸い込んだ息が胸をいっぱいに満たした瞬間、二人は突き当たりの壁を目指し走り出した。
 弾む息と切る風の音。
 もどかしい数秒。
 無言の了解どおり、カレルたちは右に曲がった。
 賭けは成立して、叫び声が背中から響く。
 たぶん一人。
 二人の影を作るライトの輪はひとつ。
 また突き当たり。
 今度は左に。
 カレルは壁に手をついて曲がる。
 角が崩れたレンガで指先が削られる。
 小回りが効くミロッシュが妬ましい。
 曲がるたびに引き離され、直線で取り戻す。
 二人が刻むリズムに硬い足音が割り込んでくる。
 じりじりと追い詰められているような感じ。
 風に混じる息の音がもうひとつ増えた気がする。
 再び右。
 曲がった直後、背中のバックを滑り落とす。
 くぐもった金属音が左に流れ、背後の気配が消える。
 ミロッシュに声をかける機会をうかがう。
 しかし通り過ぎた脇から重なり合う靴音。
 声ではなく会話。
 二人以上、五人未満。
 一部が左右に別れ、遠のいていく。
 カレルはミロッシュの肩に手を伸ばした。
 バランスが崩れ、顔がうつむく。
 ピストン運動する足先が黄色いラインを横切る。
 不意にミロッシュの踵が現れた。
 彼を押しつぶしながら壁に激突した。
 痛みを感じるいとまもなく、カレルは起き上がり振り返った。
 正面にはサヴァンウォールの警備兵が二人。にやにやしながら歩を緩め近づいてくる。
 左手からも同じ制服が二人。ただし胸に縫いつけられたマークが違う。
 そして薄闇が続く右手。
 カレルは荒い息を繰り返すミロッシュの手をつかんだ。座り込んだままの彼を引き上げ、そのまま駆け出そうとした。
 しかしつないだ腕はぴんと張っただけだった。ミロッシュは動こうとしない。
 言葉をなくし目線だけで苛立ちと疑問を呈すカレルに、力なく手を引っ込めたミロッシュが歪な笑みを返してきた。カレルが知る限りそれは悪い意味のものではなかったが、この場面において何を示しているのか見当もつかなかった。
 困惑に立ち竦むカレルの前で、左手から現れた警備兵が無造作にミロッシュを引き起こした。何の抵抗もしない彼を荷物のように手荒に扱う。黒のベストが捩れ、フラップの開いたポケットから油染みのついた小さなノートがこぼれ落ちる。
 それを他人事のように呆然と眺めるカレルの両脇にも、濃紺の太い腕が差し込まれた。エヌイースト・ゲート所属を示す袖口の三本の反射テープは、唯一の活路だと思っていた右手の薄闇から近づいてきたらしい。
 カレルは窮屈な首を強引に捻り、自分をぶら下げ引きずっていく二人の警備兵を交互に睨んだ。けれどコピーしたように似ている顔の下半分はどちらも高い位置にあり、きつく閉じられた厚ぼったい唇を見るのが精一杯だった。近すぎてピントが合わせづらいそれから目を離すと、木の葉をあしらった八角形のワッペン越しに、自分たちを散々追い回した警備兵が見えた。知らぬまに五人に増えた連中は、レンガ敷きの通路に引かれた黄色いラインの向こうで横一列に並び、同じタイプのいやらしい薄笑いを浮かべていた。