from EDEN

第1章 / 感情の成立(3)


「僕が全て計画しました」という再三に渡る主張は聞き流され、取調べはあっというまに終わった。結局ここオクタヴィアでは自己申告よりデータベース上の履歴がものをいうのだ。それにカレルの場合、返却されたバックの中に身分を証明するものがなくとも、右肩に刻まれたハニカム・サインを見せるだけで済むのだから、なおさら話が早かった。ファクトリーメイドの証である九つの六角形。とりわけ中央が塗りつぶされたカレルのタトゥーは、エルラボにとって最初の成果であることを示していた。
 そうして留置所らしき小部屋に連れてこられたカレルは、床に直接置かれたマットレスの上で、手持ち無沙汰にミロッシュのことばかり考えていた。自分を取り調べた士官の極めて事務的な態度を思い浮かべ、親友も同様に丁重な扱いを受けているようにと願った。カーペットを敷きつめた十フィート四方ほどの空間には窓どころか照明のスイッチさえなく、壁の低い位置に埋め込まれた常夜灯がなけなしの褪せた朱色を恵んでくれるだけだった。最初は物珍しかったむきだしの便器も、ウレタンフォームの壁も、すぐに見飽きてしまったカレルが、手出しのできないその仄暗さに誘われ、考えても仕方のない無駄な思案に熱中するのも無理はなかった。
 そんなわけで、カレルが不測の来訪者に気づくのは遅かった。おそらくリノリウム張りの廊下から靴音が響いてきたはずだが、頭の中により良い結末を作り上げようと努力していたカレルの耳には入らなかった。
 ドアに穿たれた覗き窓の蓋が開けられることもなく、いきなり天井のサークラインが瞬く。
 鍵を外す小気味の良い音に続いて、ドアノブが滑らかに回る。
 そこでようやく目を擦りながら上体を起こしたカレルは、扉の向こうから現れるだろうヴォイチェク博士を想像した。「いたずらが過ぎるぞ、カレル」といって作り笑いを浮かべる薄い唇が脳裏をかすめると、不意に胸を締めつけられるような感覚に襲われ、抑えきれない吐き気がこみ上げてきた。
「君がカレル・グーテンソンか?」
 けれど実際目にしたのは、厚い唇と人懐っこそうなたれ目だった。予想していたものと正反対の顔をした初老の男は、ここが自分の家だといわんばかりにずかずかと入ってきて、「大きくなったな」カレルの答えを待たず、ひとり納得して便器に腰かけた。
「貴方は?」
 マットレスの端で膝を抱えたカレルは、頭を僅かに沈めてみせたあと、怪訝な表情を隠そうともせずに訊いた。地味だが仕立ての良さそうなダークグレイのスーツを着た男に見覚えはなかった。
「そういえば、君にとっては初対面同然か」組んだ膝の上に片肘をのせ、前屈みになった男はいった。「私はイグナツィ・ザカリアス。エヌイースト・ゲートの所長だ。君とは以前、エルラボの研究室で会ったことがある。もっとも、アクリル水槽越しだったがな」撫でつけた白髪混じりの髪とは対照的な、好奇心溢れる眼差しが真正面からカレルを捉えた。
 ザカリアスの答えは一応つじつまが合っているように思われた。知らない大人から自分の成長を語られることは今までにも何度かあった。とはいえ、カレルは不信感を拭えなかった。そういった迷惑な思い出話を持ちかけてくるのは、執政庁の高官など、決まって地位の高い人間だ。サヴァン・ウォールの八分の一を仕切る程度の男が、エルラボの研究室、それも当時極秘だったというプロジェクトを目の当たりにしたとは信じられない。
 しかしカレルは「そうですか」と適当に受け流して、この胡散臭い男に対する疑念を棚に上げた。そんなことより訊きたいことがあった。
「それで、ミロ。僕の友達は、今」
「大丈夫だ」ザカリアスはきっぱりと答えた。「他の部屋で休んでいる」といって目元に笑みをたたえる。
 その包容力のある雰囲気にほだされ緩みそうになる緊張感を、カレルは意識的に引き締めた。大人の笑顔には作為がある。それがヴォイチェク博士から学んだことだった。
「ミロはどうなるんです? 僕のほうはヴォイチェク博士が引き取りにきて、それで終わりでしょうけど」
「いや、ヴォイチェクは来ないよ」
 またザカリアスが妙なことをいった。カレルが知る限り、ヴォイチェク博士を呼び捨てにできるのは、やはりそれ相応の立場にいる人間だけだった。
「実は君たちを捕まえる前に、彼から連絡があった」眉を顰めるカレルの顔つきを勘違いしたのか、ザカリアスの話は違った方向に展開した。「僕の大事な息子がそっちにお邪魔するかもしれないから、保護してくれとね」
 カレルは地下鉄から見たヴォイチェク博士の姿を思い出した。やはりあのとき見つかっていたのだ。
「だが安心してくれ。君たちのことをいうつもりはない。私はあの生意気な若造が嫌いでね。それにあいつの爬虫類みたいな目を見ると、途端に気分が悪くなる」
 そういってさらに前のめりになったザカリアスは、カレルに顔を近づけ舌を出した。その子供じみた仕草に、自然とカレルの口元はほころんだ。彼に対する疑心が関心に変わっていくのを感じた。
「それはそうと」ふと気づいたといった調子で、ザカリアスが姿勢を正し、内ポケットを探った。「これは君のかな?」
 差し出された分厚い手には、カレルの目を惹くものがふたつあった。ひとつはミロッシュのペットに良く似た玉虫色のトカゲもどき。もっともそれはザカリアスが取り出そうとしたのではなく、ポケットの中に忍んでいたものが偶然手にのって出てきただけのようだった。
「ああ、こいつは私の首輪だ」腕をたどり棲みかへと戻っていくトカゲを顎で指したザカリアスは、訊かれたわけでもないのに、勝手に言い訳を始めた。「この出来損ないのトカゲのおかげで、私はずっと壁の中に閉じ込められてきた。もう十年近く、ここの屋上でしか日の光を浴びていないくらいだ。しかしカレル、心配しなくても良いぞ。こいつに音声を記録する機能はない。単に位置情報を発信するだけだから、君と私が接触した事実が、奴らに伝わることはない」
「奴らって?」
「もちろん執政庁の連中だよ。それに君の親権者も」
「……はあ」
「で、これは君のか?」
 要領を得ないザカリアスの早口に首を捻りながらも、カレルは「えっ、ええ」と言葉を濁して、もうひとつの興味深いものに手を伸ばした。角が捲れ上がったコーラルピンクのノート。ルドヴィーク・ラインハルトの日記。ミロッシュには悪いが、片手に収まるほど小さなそれの誘惑は何よりも強く、耐え難いものだった。
 しかしその色あせた表紙を開けた途端、興奮するカレルの指先は強張った。しびれるそれで波打つページを乱暴に弾いてみても、暗号である可能性を感じ目を凝らしてみても、几帳面な文字が示すところは変わらず、そこには料理のレシピが記されているだけだった。
 判然としない失望に肩を落としたカレルは、閉じたノートをかえすがえす眺め、それがミロッシュの宝物に間違いないと今一度確認したあと、油染みが点々と広がる表紙に鼻を近づけた。案の定、ミロッシュと待ち合わせたあの裏路地に漂っていたような、使い古された食用油の匂いがした。「これって、僕たちが捕まった場所に落ちていたものですよね?」それでも念を押さずにはいられなかった。
 けれど天井の一点を見つめるザカリアスからは、気のない答えが返ってきただけだった。「……ああ、そうだ」それまでの親しみやすい表情を一変させた彼は、円形の給気口に神経を集中させていた。
「ちょっと、待っててくれ」
 独り言のように呟きながら、張りつめた気配をまとったザカリアスがやにわに立ち上がった。カレルに目を向けることもなく、あわてて部屋を出ていく。
 彼が残していった視線の軌跡を、カレルはぼんやりとたどった。給気口に重なるリング状の羽根の震えは、どことなく不自然だった。吹き抜ける風に膨らむダクトの脈動。それとは違う周期で、しかもしだいに振幅は増していっている。
 だがその現象からは何の答えも導けず、それなら親友がついていた嘘にとことん考えを巡らそうと、再びマットレスの上に身体を投げだしたカレルは、ふと重要なことに気づいた。そういえば急ぎ足でザカリアスが去ったあと、鍵を閉める音が聞こえてこなかったような気がする。
 まさかと思いつつもカレルはドアまで這いずっていき、あきらめ半分でドアノブに手をかけた。円筒状のステンレスがあっけなく回りきる。いったんそれから手を離し、床に転がしてあったバックをたぐり寄せ、背負った。
 そして決意がつかぬまま、今度は片膝を着いただけの戦闘的な姿勢で、包み込むように優しくドアノブを握った。


     *


 壁付けのインターフォンに向かって、ザカリアスは何事か話していた。そのくぐもる声との距離はおよそ二十ヤード。ちょうど中間の右手に、非常口を示す緑の明かりが見える。
 カレルは迷った。ここで駆け出せば、きっと彼を出し抜けるに違いない。けれども不案内なこの場所で、その先どうすれば良いというのか。闇雲に突き進むだけならば結果はみえているし、それにミロッシュを置いていくわけにはいかない。
「カレル」
 突然こちらに顔を向けたザカリアスの声が、スチールパネルに囲われた無機質な廊下に響いた。彼の手招きの残像を瞼の裏に残しながら、カレルは薄く開けたドアから首を引っ込めた。しかし開き直りの気持ちも手伝って、閉めかけたドアを寸前で押しとどめる。近づいてくる足音を迎え撃つべく、立ち上がり大きく息を吸った。
 そうして正々堂々の見かけを繕って、今度は大きく開けたドアから廊下に踏み出すと、ダークグレイのスーツはもう目の前まで迫っていた。聞こえてきた歩数から計算したより、遥かに早い到着だった。
「何してるんだ、急げ!」
 大股の歩みを止めたザカリアスの声は刺々しかったが、それが自分に向けられたものではないと、カレルは不思議に理解できた。たすきがけにしたバックの肩パッドを掴まれ、「離れずに着いてこい!」と強い調子で指図されても、反発よりは疑問を感じた。
「どこに行くんですか?」
 歩き出した恰幅の良い背中に、カレルは尋ねた。
「壁の向こう側、君たちが目指している場所だ」
 ザカリアスの無骨な手が懐に消えた。滑らかに動いたそれの上に、手品のごとく小型の拳銃が現れる。急に現実味を帯びた緊迫が解釈を経ず、直接カレルに浸透していく。
「それって……でも、どうして?」
「エデンの子が十三歳になったからだ」
「えっ?」
「君のことだよ、カレル」
「僕が? いってる意味が」
「今はわからなくても良い。ここを出たら、とにかくエデンに向かえ。壁の外にはルドヴィークが待っているはずだ。場所は彼に訊け」
「ルドが……?」
「心配するな、彼の弟、つまり君の友達も一緒だ」
 自分が置かれている状況の曖昧さに、カレルの戸惑いは募るばかりだった。返ってくる答えはどれもディテールを明らかにせず、まるで混乱を引き起こすために発せられているかのようだった。その一方で、大の大人が語るエデンの話は、断定的な物言いと相まって、根底に真実を抱えているようにも聞こえた。けれど繰り出す足のテンポに思考をかき乱されるカレルには、膨らんでいく困惑を充分に吟味する余裕はなかった。
「じゃあ、ミロは」
「ああ、すでにルドヴィークと合流して」
 そこで突然口を噤んで、ザカリアスが立ち止まった。惰性で横に並びかけるカレルを、後ろ手で押し戻し、左側の通路から音もなく伸びてくる影に拳銃を向ける。
 カレルは唾を飲み込み、彼の背中に隠れた。直に伝わってくる鼓動が、自分のそれとシンクロした。
「所長……」
 するとか細い声が流れ、凝結した空気が一息に解放された。
「ああ、お前か。ビックリさせるな」
 身体を傾げ、カレルは前方を盗み見た。曲がり角から半身をのぞかせている士官の顔には見覚えがあった。やたらと飾りたてられた肩章に、ずらりと並ぶ金ボタン。およそ戦うことを前提としていない制服を着た男とは、取調室で顔を合わせていた。しかしそのときに感じられた威厳はなく、上官であるザカリアスの前だからだろうか、男の態度はどこかおどおどしていた。
「君のために世界はある。これだけは忘れるな」
 押し殺したザカリアスの声が、かろうじてカレルの耳に届いた。
「えっ?」
 振り仰ごうとした頭に、硬そうな手のひらがかざされる。
「右だ。それから上へ」
 続く呟きはほとんど聞こえなかった。ただ幅広の背中が再び引き締まったことだけは感じ取れた。
「逃げろ!」
 乾いた音が壁に反響して、オクターブを上げた。発砲した反動なのか、同時にザカリアスの右肘がカレルの胸を突く。それを合図にカレルは何もわからないまま、もと来た方角に向け反射的に身体を捻った。士官を盾に押し入ってきた黒い影が視界をかすめた。
 瞬時に目に焼きついたその理解不能な光景に背を向け駆け出したカレルは、すぐ右に曲がった。確かザカリアスはそういっていたはずだ。しかしそんなことはこの際どうでも良かった。混乱するカレルは、背後の銃声から遠ざかりたいという衝動にひたすら突き動かされているだけだった。


     *


 どこをどう走ったのか覚えていないが、とりあえずカレルは壁の外に出た。この期に及んで、ザカリアスの右とは振り返った自分の左だったと気づいても、すでに手遅れだった。辺りを見回すと、間違いなく金網の向こうにサヴァン・ウォールが聳えていた。息せき切って地下通路を走り回り、もぬけの殻だった警備兵の詰め所を抜けた先は、結局元の場所。高層ビルをすき間なく並べたような建物沿いに広がる陰気な貧民街だった。
 しかしそこに数時間前のうらぶれた暗さはなく、いたるところから上がる火の手が曇天の夜空を赤く染めていた。
 断続的な銃声と足元まで揺らす爆発音。
 競うように間隙を埋める悲鳴と怒号。
 一足飛びに近づいてくるそれに、カレルは思わず警備棟の中へ後ずさった。通りに突き出た曲面ガラスの曇りをパーカーの袖で拭うと、表通りからこちらに向かって駆けてくる一団が見えた。その瞬間、余韻を引きずる発砲音が轟き、先頭を走っていたただひとりの警備兵の頭が吹き飛んだ。
 途端にスラムの住人たちの足並みは乱れ、先導者を失った混乱が叫喚を伴って狭い路地を埋め尽くした。瞬時に圧縮された叫び声が一気に膨張し、カレルの目の前を通り過ぎていった。統制をなくした群衆は、仲間同士で押しのけ合い、弱い者を踏み台にして、サヴァン・ウォール手前の金網をよじ登り始めた。だが本来オクタヴィアを守るはずの壁とフェンスも、今は敵の味方だった。身内の中では勝利者となった者も、黒い影からみれば格好の標的であった。
 それが証拠に、彼らが金網一面に広がるのを待っていたかのごとく、軽やかな銃声がアレグロを奏で、這い上がる背中に弾着の花が咲いた。うずくまって両手で耳を塞ぐカレルの狭まった視界の上辺を、止むことのない殺戮の意志が横切っていく。道いっぱいに広がり淡々と進む黒い影の肩には、跳ね上がった白い菱形が二つ浮かんでいた。
 羽根を模したというそのエリアマークの実物をカレルは初めて目にした。けれど誰の口にも上るとおり、イルムガルトはオクタヴィアの敵であり、かつ容赦のない相手だということは即座に理解できた。噂以上に、黒ずくめの男たちは残忍で冷酷だった。金網の前に折り重なったスラムの人々になおも銃弾を浴びせかける連中の頭には、大人と子供の区別さえないようにみえた。
 そうして路地から溢れた濃厚な血の臭いがしだいに警備棟の中に立ち込め、カレルは堪らず嘔吐した。すっかり胃の内容物を吐き出し、苦く湿った口を拭う頃になって、ようやく機関短銃のトリガーから指を離したイルムガルト兵たちは、陽炎が立ちのぼる銃口と編み上げのブーツの先で、黙々と死体の山を崩し始めた。すると幼い子の泣き声を聞いたひとりの兵士が身を屈め、小さな手を掴んで強引に引きずり出し、何の躊躇もなくワンアクションで引き金を絞った。綿が抜けた縫いぐるみのようになった子供を投げ捨てた兵士のゴーグルが節度をもって左右に揺れた。その動きひとつで連中は金網沿いに二手に分かれ消えていった。
 カレルはすぼめた肩を壁に摺りつけながらのろのろと立ち上がり、サヴァン・ウォールに続く自動扉を振り返った。外側からはIDカードがなければ開かない、自分にとっては一方通行の扉にしばらく目を遣ったあと、惨状を晒す路地に進み出た。いつのまにか固めていた拳を緩め、震える足を表通りへと向けた。その先で立て続けに爆発が起こった。
 膨れあがる空気に鎧戸が千切れ飛び、赤い閃光が横向きに走る。
 粉塵の吐息に呼応して、壁を覆ったモルタルが崩れ落ちていく。
 露わになった下地のレンガに、放物線を描いてとどめの一発が打ち込まれた。
 逃げることも忘れ立ち尽くすカレルの髪に、その破壊の残滓が降りつもった。裏通りに軒を並べていた店の二階部分は跡形もなく消え、地面から立ちのぼる霞越しに、広がった夜空が見えた。煙をくゆらす瓦礫は細い路地の許容量を超え、表通りに向かう道を完全に塞いでいた。目的だった首なしの警備兵は、その山の下に埋もれてしまった。
 けれどカレルにさほどの落胆はなかった。仮にあの警備兵のIDカードを使い壁の中に戻ったとしても、結局そこにもイルムガルト軍がいる。それに今さら執着するべきものなど何もないように思われた。たとえそれが自分の命であっても、いっそのこと投げ出して楽になりたい気持ちが大半だった。
 それでも自然と動いた足に導かれ、カレルはゆっくりと踵を返した。ぼろ布のごとき死体をリアルに感じないよう視線を遠くに保ち、血の臭いを遮断するために口だけで呼吸をした。T字の突き当たりを迷いなく、だが当てもないまま左に曲がった。またどこかの路地に入り獲物を探しているのか、金網沿いの舗道にイルムガルト兵は見当たらなかった。
 もしかしたら分かれたもうひとつのグループが背後にいるかもしれないと思いつつも、カレルは構わずに歩を進めた。一際大きな音がして見上げると、サヴァン・ウォールの最上部からばらばらになった高射砲が落ちてくるところだった。それにも大して心を動かされず、カレルはとぼとぼと歩き続けた。もはやそこに意味はなく、ただ歩き続けることがカレルの目的となった。
 そうしてどれくらい進んだのだろうか。まだエヌイースト地区なのはたぶん間違いないが、薄い真綿に包まれたような朦朧とした意識では、それさえも特定できなかった。ただ感覚的には随分と長い時間が過ぎたような気がした。しかしあの虐殺の記憶が遠のいたわけではなく、視界の隅に嫌でも割り込んでくる路上の死体たちが、忘れることを許してくれなかった。頭の中で反芻する悪夢を断ち切るような出来事は何ひとつ起きずにいた。叫び声や靴音は聞こえども、生きている人間の姿を見かけずにカレルはここまで来た。だが僅かづつ左へ曲がっていく道の内側、飲食店らしき建物の裏口、そこの粗末な木製の扉の慎み深い動きは、明らかに人の存在を示していた。
 それに気づき足を止めたカレルは、すぐそばの立て看板に身を隠した。扉から現れた人影に、見間違いでないかと目をこすって焦点を合わせる。からからになった口には飲み込む唾がなく、喉が張りついたようにつまっていた。それを一気に押し広げながら、安堵の溜息が胸から漏れた。
「マレク」
 決して大声ではなく、カレルはそのツイードのジャケットに向かって呼びかけた。「生きてたんだ」急に懐かしさが湧いてきて、吸いつけられるように近づいていった。
「でも、どうしてこんなところに?」
 少し怯えた表情でマレクが振り向いた。彼がリグレノイドである以上、もちろんそれも何らかの意図をもって創出されたものに違いない。けれど普段ならいざしらず、今のカレルにそういう物の見方はできなかった。
「カレル……」
 教え子の出現に事情が変わったのか、マレクの表情が奇妙に歪んだ。
 ゆっくりと上がり始めた口角が、例の皮肉な笑いでいったん静止したあと、なおも上昇を続け、力ずくで上唇を引き寄せていく。
 その動きの限界点で、伸びきった薄い唇が裏返り、下向きの円弧が一瞬にして山なりに変じる。
 人間ならとうに顎の関節が外れているだろう異形。
 顔の半分以上を占めるようになったマレクの口。
 それは立ち竦むカレルの目を覚まさすには、充分すぎるほどの刺激があった。


     *


 同軸三連のスピーカが最大出力で放つ音は、もはや人の声ではなく、耳を聾するばかりの轟音だった。右手を突き出し、絶叫するマレク。その醜く開いた口から流れ出るアラームの威力は絶大で、振り向く間もなくカレルの背後には殺気の壁が打ち立てられた。
 教室裏でのやりとりを今さら思い出したカレルは、自分の迂闊さに呆れつつもとっさに路面を蹴った。
 すぐさまばら撒かれた銃弾が舗道に跳ねてさえずる。
 這い上がってきたそれがぶすぶすと鈍い音に変わる。
 膝裏を貫く熱さより、カレルはその音質の変化で身に起きていることを知った。
 弾かれた脚が虚空を掻き、揺れる視界が落下を始めた。
 急速に近づいてくる敷石の表面にピントが合わず、まるで突然のズームアップに表示が遅れたテクスチャーのように見えた。
 その荒くなっていく一方の画面に、思いがけずマレクの白い手が現れた。避けるすべもなく、カレルは宙に浮いたまま、つんのめる身体を下からさらうように伸びてきた精巧な造りの腕に抱きとめられた。直後、頭上を抜けた鋭い風圧が派手な火花を散らし、空転する脚でもがくカレルの肩を押しのけて、破断したマレクの頭が飛んでいった。
 不意に束縛から解放されたカレルはしたたか膝を打ったが、やけに軽々しく転がるイルムガルト製の頭部につられて顔を上げた拍子に、滑りやすい石畳を捉え再加速に成功した。毛のように細いチューブとケーブルを引きずるマレクの首を目の隅でやり過ごし、最初の角をラバーソールのグリップの限界で左に曲がった。一瞬横に流した怖いもの見たさの視線に、腕を垂らしひざまずいたマレクの本体を蹴り飛ばしながら追ってくる数人のイルムガルト兵が映った。味方であったはずのリグレノイドにも、やはり彼らは情け容赦がなかった。
 カレルはマレクの真意が理解できなかった。彼が黒い兵隊を呼び寄せたのは間違いなかったが、危険を犯してまで獲物を提供するほど、機械じかけの心が情緒に傾いていたとは思えない。だいたいこの勢いでは、いずれオクタヴィアの人間は皆殺しにされる。自分ひとりをイルムガルトに差し出して何になるというのか。それこそリグレノイドお得意の計算でわかりそうなものだ。
(だとしたら何故?)
 結局そこで始めに戻るしかない思考を、カレルは弾む息の中に散らして薄めた。目前を転がっていったマレクの頭部には無数の穴が開いていて、記憶回路も修復不能なほどの壊れぶりだった。あるいはその一部だけならサルベージできるのかもしれないが、真実を知るための最低条件、背後に迫る危機から逃れる図が思い浮かばない以上、考えを巡らせても意味がなかった。
 そうやって逃げ切る可能性を自ら疑いつつ、それでもカレルは焼きつきそうな胸を急きたてた。撃たれた膝の痛みを感じなくなったのは良い傾向だったが、この地区に馴染みがない余所者には、その幸運もさほどの朗報とはなり得なかった。夜空はもとの色を取り戻し、おまけに外灯の多くは消え、ただでさえ薄暗い路地には一層の闇が幅を利かせていた。それはライトを使うわけにはいかないカレルにとって好ましい状況ではなく、いったん離れた追っ手の靴音はいまや勢いを増すばかりであった。
(このまま走り続けても……)
 それに気づいたカレルは半ば無意識に、もつれる足を右の暗闇に向けた。視界はほとんど効かず、手を鼻先にかざしてようやく見えるくらいだった。車がやっと一台通れるほどの道幅。曖昧な希望にすがって選んだそこを、スタッコ塗りの外壁の凹凸を頼りに進んでいった。
 やがて指先が直角をたどり、また少し行くと角に突き当たった。背後遠くを横切っていく殺意をよそに、カレルは疲れ果てた身体を袋小路のどんづまりに投げ出した。もうどうすることもできず、またどうかする気力も湧いてこなかった。引き返しても良い結果が期待できないとあっては、ここでいつかやってくるだろう死をただ待つしかなかった。
 しかし無慈悲な連中はそんな猶予さえ認めないというのか、一度遠ざかった気配の再来は思いのほか早かった。ふくらはぎをゆっくりと撫で上げ、パンツの下を伝う生暖かいぬめりが彼らを導いたと知ったカレルに、突き刺すような光が投げかけられた。薄目を開け長い睫に透かしてみると、手探りで進んできた道のりは存外に短かった。
 もはやあきらめ極まったカレルは、顔を上げただけでイルムガルト兵を出迎えた。細めた目のスリットから確認した敵の数は五人。獲物が命乞いするのを待っているのか、機関短銃を腰だめにして悠々と近づいてくる。ひとり前を歩く兵士だけは、他の連中と違う銃器を顎の高さに構えていた。
 二本余計にラインが入ったそいつのヘルメットが僅かに傾いで、無骨なブーツの行進が止まった。カレルはしかめ面を作るように思い切り目を閉じた。行き場をなくした力が顔から全身に波及し、痙攣した背中が自然と丸まった。そしてスラムの人々をボロ布に変え、カレルの膝を打ち抜いた、あの忌まわしい音が響いた。
 瞼の内側の暗黒でそのリズムを聴くカレルは、縮めた足の先に何かが落ちてきたのを感じた。路地を揺らした振動が横に流れ、記憶を呼び覚ますように空気を震わせる。
 ぶうぉん。
 頬を焦がす圧倒的な熱量。それの放つ輝きが瞳を覆う薄い皮膚を透過して、カレルの世界を赤く染めていった。