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第2章 / 直接の干渉(1)



 私服に着替えるカレルの脇を、小型の軍用トラックが通り過ぎた。上下を極端に切りつめた横長のフロントガラス。視界の確保にはまるで興味がなさそうなデザインが向きを変え、引き込まれるようにトンネルの中へ後退していく。
 そのつぶらなスモールランプが闇に埋もれかけたところで、カレルは追尾の視線を外した。代わりに耳をそばだてると、保護色と化した影の動きが手に取るようにわかった。
 セメント袋を投げ捨てるような音が立て続けに三回。
 そして鉛灰色のボディが再び姿を現す。
 横っ腹を向け停まったそいつの荷室に、あの三人の死体が収められているのは間違いなかった。
「ミラダに着いたら、服を買わなきゃいけないな」
 これ以上の内圧には耐え切れないといったふうに、分厚いドアが勢い良く開いた。開口面積の不足を訴える折りたたまれた巨躯には、やはり何食わぬ顔がのっていた。
「まっ、でもそれくらいがあそこにはお似合いか」
 開放感を味わうためか、あるいは威圧感を高めるつもりか、即席霊柩車から降り立ったフリッツは、組んだ手を裏返して頭上高くに伸ばした。頬を膨らませバケツ一杯分の息を吐いたあと、油圧じかけのような指の結合を解き、バックパックから実用一点張りのシャツとパンツをつかみ出す。戦闘服と大差ないそれに絡まり落ちた黒い棒が、乾いた地面で弾み、ささやかな砂埃をたてた。
 カレルは足元に転がってきたその棒を拾い上げ、まじまじと観察した。フリッツのと比べれば随分と小振りだったが、それでもそこには懐中電灯とは違う精巧さが感じられた。
「これが、ドゥームカッター……」
 思わず感嘆の声が漏れた。けれど顔を上げたカレルの目に映ったのは、こちらの百分の一にせよ、同じ方向性、つまりは驚きの表情を浮かべた光の剣の使い手だった。
「そう呼ぶのか?」
 私服に移し変えた自分のドゥームカッターをさすりながら、上半身裸のフリッツが顔を寄せてきた。
 その真剣な眼差しに、カレルはたじろいだ。「いえ、そのジグマ……、つまりゲームの中では……」何故か恥ずかしくなり、叱られた子供みたいにうつむいてしまった。
「いや、君がいうのならそうなんだろう。きっと」
 だがフリッツは、思いのほかあっさりと引き下がった。カレルが頬の火照りを気にしつつ上目遣いに様子をうかがうと、似合わないだろう無防備な顔つきはすでに更新されていた。
「君には必要ないだろうが、欲しければあげるよ」
 黒いスタンドカラーに袖を通しながら、どうぞご自由にといった調子でフリッツが呟く。見事な指さばきでボタンをかけ、ボディアーマー不要論を唱える胸板をすみやかに黙らせていく彼の口調は、ジャンク屋のごとき素っ気のなさだった。
「本当ですか?」
「レバーを前に倒し、押し込んでみな」
 カレルはいわれたとおり、豆粒大の丸い突起を操作した。サーボモータが面倒そうに唸り、ドゥームカッターの先端が扇状に開く。鍔の役目を果たすらしいそれの中心に、薄紅色の光が灯った。
「しっかり握っていたほうが良いな」
 サイズからは想像できない重みが手首にかかる。正確にいえば重くなったわけではなく、細い棒の中で何かが高速回転しているようで、かなりの振動が伝わってきた。慣性のせいなのか重さには偏りがあって、上に向けた手のひらが徐々に右へ押されていく。その動きに逆らい、左手を添えたカレルはドゥームカッターを身体の中心に引き戻した。
「ダイヤルで出力が調整できる」
 鍔の下の刻みを親指で回すと、さらに手首への負担が増した。回転体が放つ可聴範囲ぎりぎりの低周波を、カレルは両腕を通して聞いた。それでもダイヤルをゆっくりと最大に近づける。ようやく光が刃らしい形になってくる。伸びるほどに色を薄め、やがて五フィートほどの薄紫が完成した。カレルは震える腕で、実体のないそれを上段まで引き上げた。
「逆らわないで、手首を返しながら、動きのままに」
 ぶおぉん。
 宙を斬った音は、すぐさま記憶と同化した。フリッツの音、そしてジークフリードの音。カレルは羽虫を叩き落すように、赴くままにドゥームカッターを振り回した。フリッツのアドバイスは的確で、慣れてくるとさほど力がいらないことがわかった。まるで光の剣に意思があるように、支えるバランスを変えるだけで素早く振り抜くことができる。その軌跡を止めるにも、同じく手首を反転させるだけで良い。
「それから、間違っても俺を斬らないように」
 あとは実践あるのみと、カレルはまず足元の低木、鋭角的な葉を茂らす棘だらけの枝に狙いを定めた。一度下がってから、大きく踏み出す。片膝をついて、水平に薄紫の光を繰り出した。
 その威力圏は見た目より遥かに大きいらしく、真ん中を狙ったつもりが、実際の切断面は地面すれすれのところとなった。もちろん効果も抜群で、光の帯が消えたときには、吹き飛んだ枝葉は早くも燃え尽きようとしていたし、残った幹は蝋燭のようにてっぺんで炎を揺らめかせるばかりだった。
 しかし木も空気と変わず、あっけないほど手応えは感じられなかった。カレルは斬ったという実感を求めて、即座に次のターゲットをサーチした。ほんの数歩のところで手頃な物件が手ぐすねを引いていた。錆びついたレールを塞ぐように置かれた岩。自分の身体ほどのそれなら、大きさも硬さも充分といえた。
 カレルはドゥームカッターを構え直し、おあつらえ向きのそこに近づいた。イメージは当然、ジグマの英雄・ジークフリード。それほど力む必要はないと知りつつ、あえて全体重をのせて斬りつけた。
 今度は手に残るものがあった。ちょっと不思議な感覚で、たとえるなら高圧洗浄器のそれに近い。カレルは以前、エルラボの壁を洗う労働者を気まぐれで手伝ったことがある。いうまでもなくヴォイチェク博士にすぐに連れ戻されたが、その僅かな間に感じた穏やかな反力、ダイレクトではないけれど、間違いなく遮るものの存在をこちらに示すリアクションは、光の剣が伝えてきたものと同種の力だった。
 そんな懐かしくもある感触に満足して、カレルはドゥームカッターのスイッチを切った。内布が破れていないことを確認してから、パンツのポケットに仕舞う。ふと我に返ると、予想外に息が上がっていた。この演習のせいではなく、ほとんど寝ていないからかもしれない。それでも気分良く足を蹴り出し、赤熱するサンプルにとどめの一撃を加えた。地球儀の赤道に似た中心線から岩は真っ二つに割れた。そうして満足を上積みして振り返ると、トラックの運転席に半身を突っ込むフリッツが見えた。履き替えるつもりがないのか、中途半端に開いたドアからもとのままのブーツが片方飛び出している。
 まさか置いてきぼりを食うことはないだろうと思いつつも、カレルは駆け寄り助手席に乗り込んだ。フリッツはおもちゃのような小径の変型ステアリングに片肘をかけ、ダッシュボード上のモニターに指を走らせていた。自動航法システムに違いない。オクタヴィアではまだ実用化されていないが、ヴォイチェク博士の愛車に搭載されている試験機とそっくりだった。
「これで良いだろう」
 非常に高価な装置であるらしいそれがこんな質素な軍用車に当たり前のごとく装備されていることに、少なからずの驚きをもってモニターに見入っていると、設定を終えたらしいフリッツが顔を向けてきた。
「降りてくれ」
 ただでさえ圧力に長けた視線がさらに鋭い。しかも顎まで突き出し降車を命じている。
 カレルは疑問を抱く暇も与えられず、否応なしにビニルレザーのシートから追い出された。まんまと邪魔者を排除したといった感じの薄笑いがウインドゥ越しに近づいてきて、無慈悲にもドアを引き寄せる。そして重みのある音が二回響いたあと、平面と直角で構成された車体がするすると動き出した。ルーフに掲げた遠距離レーダを振りながら、徐々にスピードを上げていく。
 そのつや消しの箱が残していった場所、ぽっかりと開いたカレルの目前には、遠ざかる二対のモータ音を見送るフリッツが立っていた。カレルは嫌な予感がして、辺りを見回す。が、確認するまでもなく、他に足代わりとなるものはなかった。三人の少年兵と一挺の重機関銃を運んできたのは、やはりたった一台の小型トラックだった。
「これもマレクのせいですか?」
「いや、逃亡兵を三人出したことだけが予定外だ」
 どっと押し寄せる疲れに身を委ねたカレルが力なく尋ねると、期待していない割にはまずまずの答えが返ってきた。
「それに死体と一緒じゃ、なにかと不都合だしな」バックパックを担ぎ上げながら、フリッツが片目を瞑った。「かといって、この辺に捨てていくわけにはいかないだろ」と、履き慣れたブーツを線路に沿ってしならせる。
「まっ、どのみちミラダまではそれほどの距離じゃない」
 所詮彼のあとを追うしかないカレルは、普段の二倍は重力に支配されているだろう頭をもたげ、低姿勢な草木の間に見え隠れするレールを思考でつないだ。それの延長線上に、限界まで視線を伸ばしていく。しかしどんなに目を細めてみても、フリッツのいう「それほど」と自分の「それほど」のギャップは縮まらなかった。歩幅の差以上に、そこには埋められそうにない隔たりがあるように感じられた。


     *


 レール脇の砂礫の道には、時間経過を知らせてくれるものが乏しかった。徐々に緑の割合が増えていっているような気がすれども、疲れた足を元気づけるほどの目立った変化はない。
 カレルはそれまでつけていることすら忘れていた腕時計を数分おきに確認し、その都度後ろを振り返った。歩いた距離の目安となるのは、背後遠くのサヴァン・ウォールだけだった。
 今や握りこぶし大となったそれは内側からの印象とは異なり、なだらかな丘の上で辺りを睥睨する姿には要塞の趣きさえ感じられた。『イルムガルトが攻めてくる』どころか、オクタヴィアのほうが周囲を威圧し、そして挑発しているようにみえる。
 壁の上空のみに展開する暗い雲が、その雰囲気に拍車をかけていた。それは破壊の吐息ではなく、イルムガルト軍は若干の色をつけたに過ぎないのだろう。オクタヴィアに生まれ育ったカレルにとってまだら模様のベールは、こうして離れてみなければわからない、いつも頭上に存在する当たり前の風景であった。
「…………」
 初めて目にする高い空と露骨な陽光に顔をしかめながら、カレルはまた時間を確かめた。歩き始めてから三時間あまり、午前九時を回ったところ。オクタヴィアではやっと薄日が射し始める頃だというのに、何の遮蔽物もないスラウォミールの大地はすでに充分暖まっていた。吹き寄せる乾風が相応の心地良さを頬にくれるとはいえ、さすがに身体は汗ばんでくる。
「フリッツ、あと」
 我慢に我慢を重ねてきた口がつい緩んだ。どうせいい出したのだからと、カレルは遠慮しつつも続ける。
「あと、どれくらい?」
「もう少しだ」
 すると気休めにもならない即答の向きが不意に変わった。一応の気遣いをみせストライド縮小に取り組んでいたフリッツの歩みが、レール際を逸れ左へ曲がっていく。
「本当です……か」
 僅かながらも弾んだカレルの声の寿命は、しかしいい終えるまでもたなかった。疑問で始まったイントネーションは変調し、呟きの底に沈んだ。線路と交叉する道も、また果てしなく続いていた。雑草に侵食されつつあるひびだらけのアスファルトの先に待っていたのは、相も変わらぬ視力の限界点だった。
「ひと休憩するか?」
 順番が違えば嬉しかったはずの申し出にも、もはやうな垂れる顔を持ち上げる元気はなく、カレルは下を向いたまま、草むらに分け入るブーツの案内に従った。そうしてこの辺では貴重だろう木陰に腰を落ち着けると、少しだけ気分上昇の傾向を感じた。複雑に絡み合った枝と肩口で揺れる下生えの緑が、目のやり場に困る広大な景色を遮ってくれていた。
「喰うか?」
 その焦点距離にようやく人心地ついたカレルの腹に、白い羽根がプリントされたパッケージが投下された。同伴者の落胆をエネルギーに変換しているとしか思えない疲れのなさで、フリッツは早くも箱の中身を地面に並べている。カレルもそれを真似て、取り出したレトルトパックの封を切り、底の紐を引いた。切り口から覗く四本の特大ソーセージの誘惑が、湯気となって鼻にまとわりついてきた。
「軍用食って、意外と豪華なんですね」
 呼び起こされた食欲を満たしながら、カレルは感心していった。ソーセージの他にも、ビスケットやスライスポテト、どれも味つけは濃かったが、その美味しさは空腹のせいだけではないように思えた。
「俺には物足りないけどな」
 箱に入っていた全ての袋をぺしゃんこにしたフリッツは、デザートのバウンドケーキを一口で飲み込んだ。粉末ココアのカップにミネラルウォーターを注ぎ込み、高速シェイクを開始する。
「だったら二人分食べれば」
「残念ながら、手持ちはこれだけだ」
「じゃあ僕のを」
「いや、ミラダに着いたときのために、腹は空かしておくよ」
「えっ?」
「夕食はもっとましなものをご馳走する」
「それって、もしかして」
「ほら、聞こえてきただろ」
 そういってフリッツは立ち上がり、道路に向かって歩き出した。
「ゆっくり喰ってて良いからな」
 雑草を踏み潰し、もろい石を砂に変えていく彼の足音に呼応して、純粋な内燃機関のがさつなエキゾーストが近づいてくる。
 カレルはビスケットを齧りつつ、中腰を上げて様子をうかがった。ココアを手にしたままのフリッツが穏やかでない行動を取るとは想像しがたいし、かといってこんなところで誰かと待ち合わせたとも考えられない。けれどいずれにせよ、アスファルトの真ん中に立ちはだかるフリッツは危なげにみえた。もちろんもし彼がドゥームカッターを抜く気なら、その危険は相手のほうに降りかかることになる。
 だがそんな緊迫に欠ける傍観者の薄い心配は、いたって牧歌的な光景によって打ち消された。トウモロコシを満載したトラックは挨拶をするように短いノーズを沈めながら、余裕をもってフリッツの前で停まった。運転席に向かって話しかけるフリッツにも、ベルトに下げた光の剣に手を遣る素振りはなかった。
「カレル」
 振り返った声が、これまでよりワンオクターブ高く聞こえた。
「食べ終わったか?」
 近づいてくる表情も、どことなく緩んだように感じられる。
「乗せていってくれるそうだ」
 証拠隠滅のためか、それとも見た目に反してこまめなのか、戻ってきたフリッツはレトルトパックの切れ端までひとつ残らず拾い集めた。
「ミラダまで?」
「少し遠回りになるそうだが、寄ってもらえるように交渉した」
 そう自分の手柄を話す背中の後ろで、カレルは密かに微笑んだ。もう歩かなくて済むことへの喜びが半分、そして残りは『交渉』という台詞が途方もなくフリッツから縁遠く感じたからだった。
 それは『恫喝』の間違いではないのか?
 口を突いて出そうになる言葉を押し留めるのに、カレルはひとかたならぬ努力を費やした。満腹となった腹の筋肉は、その指令に震えながらも懸命に応えてくれた。


     *


 ドラガンと名乗った運転手はやたらと陽気だった。フリッツと同じくらいの年齢だろうか、三十台半ばにみえる浅黒い顔が話すたびに上機嫌な皺を刻む。アクセントを強調する甲高い早口に連動して、眉間を乗り越え一直線につながっている眉毛がうねる。
 オクタヴィアではまずお目にかかれないタイプの彼とフリッツに挟まれたカレルは、ベンチシートの真ん中で幾度も汗を拭った。空調が故障している車内では窓から吹き込んでくる風が唯一の頼りだったが、左には暑苦しいまでの大袈裟な身振り手振り、そして右隣には視界さえ阻む巨体。つまるところカレルの頬を撫でていくのは、はだけたシャツからはみ出しているドラガンの胸毛で濾された空気だけであった。
 その体臭を孕んだ熱気に頭がぼっとしてカレルの口は重くなったが、フリッツのフォローはそれを補って余りあるものだった。ふたりを親子だと勘違いするドラガンの質問にも、平素の威圧感を潜め、率先してフランクな口調ですらすらと答えていく。おかげでカレルは頭が良くて運動も得意、明るい性格で学校では人気者だけれど、気の強いところが玉にきずなイルムガルト在住の十三歳となった。それにしては今の自分の態度は少し大人し過ぎるかなと思ってみても、リアルなイメージを積み上げるフリッツの口先には揺るぎない真実味が宿っていて、気の良さそうなスラウォミール人は疑いなくその作り話を丸呑みしたようだった。
 カレルはフリッツの意外な特技に興味を惹かれ、しばらくはそんな空虚なやりとりに耳を預けた。だがやがてそれにも飽き、荷台が軋む音や荒い舗装が奏でる振動と一括処理することによって、目の前を往復する声をBGMとして聞き流すことに成功した。そうして夢うつつを許さない乗り心地を提供する、ある意味安全なトラックに拾われてから五時間ばかりが過ぎ、ワイパーの拭き跡だけがクリアなフロントウインドゥ越しを、人工的な色合いがちらほらとかすめ始めた。
「坊ちゃん、もうすぐですぜ」
 くすぐったい物言いに誘われ目を遣った麦畑の中の赤い屋根はどれも小さく、高い位置に穿たれた窓の面積も控えめで、まるで農作業小屋のようにみえた。しかし石積みの壁から伸びたバーゴラの下では子供たちが遊び、煙突の先からは白い煙が薄くたなびいている。
「スラウォミールの家は、みんなこんな感じなんですか?」
 カレルは誰とはなしに尋ねてみた。オクタヴィアでは集合住宅がほとんどで、一軒家といえば邸宅と呼べる規模のものしかない。
「いえ……、あの……」
 何てこともないその質問に、何故かドラガンは言葉をつまらせた。一文字の眉を波打たせる彼に代わって、フリッツの重い肘鉄がカレルの脇腹に答えをくれる。僅かなストロークで効果を発揮するそれに喚起され蘇った鼓膜の記憶によれば、スラウォミールとイルムガルトの行き来に制限はなく、特にイルムガルト側からの訪問は授業にも組み込まれているという話だった。
「……そうか。すると坊ちゃんの学校では、都市部に行かなかったんですね」
「は、はい」
「でも大丈夫ですよ。ミラダはそれなりに賑やかな街ですから」
 上手く誤魔化せたのかどうかわからないが、ともかくイルムガルトの少年として不適切な質問は、ドラガンの中で一応の決着をみたようだった。やがて彼がいったとおり、多層建ての家々が頻繁に見られるようになった。
「旦那、ここで良いですかね?」
 それが充分に密度を増した辺りでドラガンはトラックを停め、運転席を離れた。
 カレルの降車を待って、フリッツが羽根の形をした金属製のバッチを彼に渡す。
「あんまり見せびらかすなよ」
「わかってますって。で、おみやげといっちゃ何ですが」
 荷台から抜き出された大振りのトウモロコシを、カレルは両手に一本ずつ受け取って、前歯がないドラガンのまぬけな破顔を見送った。長時間のドライブで染みついてしまったのか、遠ざかってもなお、身体のうちではディーゼルエンジンの粗雑なリズムが鳴っていた。


     *


 三本のトウモロコシを悠々と片手に収めたフリッツを追って、カレルは口をすぼめる細い路地に足を踏み入れた。しかしいくら進もうとも、ドラガンがいった賑やかさとは出会えなかった
「静かですね」
 短い階段と狭隘な平面が連続する石畳に、カレルの声だけがむなしく響いた。左右に迫る建物の間、そこに高く張られたロープには洗濯物が揺れているのだから、決して人がいないわけではない。けれど不審に思って視線を巡らせても、それ以上の発見といえば、軒並み締め切られたカーテンくらいのものだった。
「昼寝の時間だからな」
 壁に点在するえぐり取られたような跡を指でなぞりながら、前を向いたままフリッツが答えた。
「昼寝?」
 カレルは驚いて訊き返した。
「そうだ」
「大人も?」
「ここだけじゃなく、スラウォミールに共通する習慣だ」
「一斉にですか? でも、それじゃ仕事にならないんじゃ?」
「奴らにいわせると、人生を楽しむコツなんだそうだ。そのおかげで修理する金もなく、十五年経った今もこうして銃撃の跡が残っている」
 そういって一瞬立ち止まったフリッツは、壁の傷の中心部に指を立てた。
「まっ、それも奴らにすれば、記憶を風化させないための保存、ってことになるんだがな」
 カレルは改めてモルタルが剥がれ落ちている箇所に注目した。小指ほどの深い穴からすり鉢状に破壊されている。ここでどれだけの人間が殺されたのだろうか。ふとスラム街での殺戮が思い出され、自分が生まれる前に終結した戦争も生々しく想像することができた。
「とはいっても、あくまでも習慣だ」
 その言葉どおり、広い割にはセンターラインさえ引かれていない通りに出ると、少ないながらも確かに人がいた。みな丈の長いシャツに身を包み、日差しを避けるようにうつむきながら歩いている。カレルたちは彼らの疎らな隊列に加わり、準備中の札をこぞって掲げる店先を過ぎた。しだいに先を行くスラウォミール人が路地へ散っていき、ふたりだけになったところでフリッツが足を止めた。
ミラダ・グランドホテル
 堂々と偽りを申し立てる看板の脇の小さなドアの向こうには、これまたつつましいカウンターがあった。そこに突っ伏した男を起こすように、フリッツは彼の頭の横にトウモロコシを放り投げた。
「おみやげだ」
 驚くふうもなくゆっくりと顔を上げたフロント係は、カレルと同年代にみえる少年だった。愛想など微塵もない表情で、取り出した鍵を無言ままカウンターの上に置く。こちらへの対応はそれで終わりらしく、少しかすれた声は斜め後方に向けられた。
「ヤツェク」
 若干の間を置き、カウンター奥のカーテンが揺れた。現れたパジャマ姿に、彼は顎でトウモロコシを指し示す。
「おみやげをもらった。仕舞っておけ」
 まだ就学前だろう男の子は、目を擦りながらそれに頷き手を伸ばした。小さな腕に抱きかかえられた三本のトウモロコシの上に、カレルは自分の分をのせてやった。
「ありがとございましゅ」
 カウンター越しに頭を下げた寝癖は、幼いながらも礼儀正しかった。おそらく兄に違いないフロント係の百倍は下らないだろう。
 是非とも見習って欲しいものだ。
 そんなことを思いながらカレルは階段に足をかけた。ふと視線を感じて振り返ると、寝るのをあきらめたのか、無愛想な少年は椅子にもたれかかり雑誌を広げていた。
「スラウォミールでは、子供も働かされるのですか?」
 カレルの問いは自然と囁くようになった。
「法律上は認められていないが、実情は見てのとおりだ」
 優雅な一段飛ばしを披露するフリッツも小声で返してきた。
「もともとここはあいつらの母親が取り仕切っていた。が、今は病気で寝込んでいる。あいつらが働かなければ薬さえ買えない」
「社会保障がないと?」
「制度はある。機能していないだけだ」
 内実を知る常連の口調が三階で横に移動し、ほとんど用をなさないのではと不安になるほど刻みの少ない鍵が一番奥のドアを開けた。
「そういうことだから、多少部屋が汚くても我慢してくれ」
 もちろんカレルに文句をつけるつもりはなかったし、事実狭い部屋を占領するふたつのベッドに魅了され、皺が寄る不手際なベッドメイクや、高くなるほど埃が目立つ迂闊な掃除ぶりもまったく気にならなかった。それに部屋のことをあれこれいうには、カレルの身体は汚れ過ぎていた。
「バスルームはこっちだ」
 背中を押す力は先を譲るという割には強く、カレルは気兼ねなく熱いシャワーに飛びついた。セーブポイントがみえた途端押し寄せてきた眠気をやり過ごすためには、それなりに刺激的な温度が必要とされた。さもなければタイル張りの床に倒れ込んでしまいそうだった。
 そうして洗いざらしの感が漂う硬いバスローブを引っかけ浴室から出ると、フリッツが水滴のついたグラスを差し出してきた。
「ミラダの名物だ」
 カレルは渇いた喉にまかせ、その緑色の液体を一気に飲み干した。当然、どろどろとしたそれが含む苦い味に気づいたときには、すでに手遅れだった。浴室に取って返し口をゆすいでも、喉の奥から渋みがこみ上げてくる。
「疲れに効くらしいぞ。苦い分だけ薬になる」
「薬じゃなくて毒ですよ、これ」
 遅配極まる説明に不満を漏らしながら、カレルはグラスを突き返した。そして笑っているらしいフリッツの角張った目を無視して、ベッドに身を投げ出した。軋むスプリングは弾力に乏しかったけれど、少なくとも甘い眠りを誘うくらいの余裕はあった。騙して苦さを飲み込ませる男より、よほど信頼に足る優しさでカレルを迎え入れてくれた。