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寝ている間にすっかり日は暮れたらしく、部屋の明かりを点けると、夜に裏打ちされた窓ガラスが裸電球のコピーを低解像度で映し出した。そこから漏れ聞こえる喧噪が、昼間と打って変わった表通りの賑わいを伝えてくる。
カレルは姿がみえないフリッツのことはさておき、そそくさと外に出る準備を整えた。未だ口の中に居座る苦みを解消するには、あるかどうかもわからないルームサービスに頼るより、かなり気の進むやり方といえたし、加えて袖を通した服がいかに汚れ汗臭かろうとも、さほど気後れする必要は感じなかった。どことなく清潔感に欠けるこの街には、それどころか似合う可能性だってある。
「ちょっと出てくる」
数時間前と同じ姿勢で雑誌を読んでいたフロント係の少年は、カレルが差し出した部屋の鍵を無言でカウンターの下に引き込んだ。周囲を巻き込みかねない彼の陰気さも、今は背後で響く楽しげな話し声によって中和されている。
「やめてよー、くすぐったいってばー」
たぶんヤツェクと呼ばれたあの男の子だろう。だがその相手となると、カーテンに遮られ、部外者のカレルには想像もつかなかった。ただし病に伏せているという母親でないことは確実で、ヤツェクを笑わせる女の声には瑞々しい張りがあった。
「じゃあ、降参する?」
同級生のそれにも似た声音に背を向けドアを開けると、表は予想以上に騒がしく、ごった返していた。もっともカレルにいわせれば、それは混雑というより混乱に近かかった。一見したところスラウォミール人には順番という概念がなく、早い者勝ちの精神が根づいているようだった。
それでもカレルは馴染みの薄い法則を即座に飲み込み、いつのまにか道幅いっぱいにまでテーブルが並べられていた大通りを負けじと進んでいった。客席を屋根の下に抱える飲食店がない中で、秩序なき流れは必然なのかもしれないが、だとしても喉を甘く潤してくれるものを探すことは思いのほか難しかった。店頭にメニューの掲示はなく、買い終わった客の手元からそれと見込んで突入してみても、やっとの思いでたどり着いた先には、アルコールの類か例の緑色のジュースが待っているだけであった。
結局カレルは度重なる落胆に妥協案の採用を決め、通りを戻りアイスクリーム屋の人垣に身を投じた。一度は最前列に躍り出たが、潤すという条件から外れたため財布を引っ込めた店だった。
そんな経験も無駄にはならず、今度は手際良く順位を上げることができた。けれどあとひとりというところまできたとき、斜め後ろの二人組に注意を奪われ、カレルの進撃は止まった。
「なあ、エデンの子って知っているか?」
「はあ? 何だ、それ」
「身体のどこかに、蜂の巣状の痣がある子供だ」
「だから、それが何だってぇのよ」
「そいつの首に、イルムガルトが懸賞金をかけたらしい」
「懸賞金?」
「ああ、一生遊んで暮らせるほどの」
「マジかよ……、だって相手は子供なんだろ?」
「そうだ。美味しい話だろうが」
「お、おう……。あっ、俺、ラムレーズン」
頭越しにそう声を張り上げて、痩せぎすの男がカレルの前に割り込んできた。思わずよろけて差し出した僅かなスペースに、連れの男ばかりか他の客まで押し寄せてくる。
なすすべもなくポジションを明け渡したカレルは、されるがままに後退していった。急に周囲のざわめきが遠く聞こえるようになり、自然と右肩に手がいく。パーカー越しに透けるわけもない刻印が、しかし気になって仕方がなかった。
その自分では制御できない左手の圧迫の隣に、思いがけずさらに強い力が加えられた。振りほどくことはとても叶いそうにない。カレルが身を縮めたときにはすでに、背後から伸びてきた手と肩の間にはボルトで締め上げたような剛性感が成立していた。
「デザートは食後にしよう」
人混みの中、カレルの身体は指先ひとつで操られた。意志とは裏腹に振り向いた先には、装甲板のようなフリッツの分厚い胸があった。
「たぶんサイズは合っている」
押しつけられた紙袋を覗くと、今着ている服と良く似たものがひと揃い入っていた。おそらくスラウォミールの製品ではないだろう。
「それじゃ、もうひとつの約束を果たすことにするか」
踵を返したフリッツの足取りは揺るぎなかった。他人の干渉などまったく受けつけない。ここでのルールは彼に有利なようで、カレルをテーブルに待たせ入った二軒隣の店から戻ってくるのは異様に早かった。
「これで足りるか?」
何を基準にしてそういっているのか、ともかくアルミトレイの上には食べきれないほどの料理が並んでいた。オクタヴィアでは口にしたことがない、刺激的な味つけ。それは量とともに充分な満足を与えてくれた。
が、カレルにはどうにも納得できないことがあった。
「飲まないのか?」もはや無精髭といえないくらい生えそろった髭を拭いながらフリッツがいう。「たぶん旨いぞ」そしてまたビアジョッキを傾ける。
促されたカレルは、恐る恐るテーブルの上のグラスを引き寄せた。緑色の液体はやはり粘度が高い。スパイスの利いた料理のおかげで前にも増して水分を欲しているが、かといって逆効果だろうそれに手を出すことは躊躇われる。
「大丈夫だって」
フリッツの無責任な物言いはともかく、とりあえずカレルは口をつけてみることにした。舐めるようにすくい取ったごく微量のジュースを、用心深く舌先で転がす。途端に口いっぱいに甘い香りが広がった。続けざまに飲んでもその好印象は変わらない。
「まさか、さっきは」
「んっ?」
「本当に毒を混ぜたんじゃないでしょうね?」
「どうして、そう思う?」
「だって、全然違う味ですよ」
「甘いってことか?」
「ええ、これだったら何杯でも」
「そりゃ良かった。ご馳走した甲斐があったってもんだ。何だったらもう一杯持ってきてやろうか」
フリッツは腰を浮かせて、尻のポケットから財布を取り出す仕草をした。
彼の表情の変化を見逃さまいとするカレルだったが、そんな試みはやはり失敗に終わった。たとえ嘘をついていたとしても、歴戦の鉄面皮がそうやすやすと馬脚を表すはずもなかった。
*
どこか遠くおぼろげな、それでいてただならぬ気配にカレルは目を覚ました。隣のベッドに手を遣りフリッツの不在を確かめたあと、足音を忍ばせ窓際に歩み寄る。捲った遮光カーテンの向こうには、昨夜のうちに片づけられたテーブルに代わり、廃車のごときボロ車に占領される通りがあった。やはり整然とした流れはなく、先を急ぐ接触覚悟の運転が余計渋滞を招いているようだった。
その蛇行する車列を縫って、抗議のクラクションを誘いながら駆けてくる男たちがいた。鉄パイプを手にしたしんがりの禿げ頭が叫び声をあげ、路肩の人波から追随する者が次々と現れる。
「エデンの子が見つかったぞ!」
薄いガラスを震わせて、怒号と喚声のコーラスが聞こえた。
だが開きかけた窓を閉めるまでもなく、懸賞金に目がくらんだ連中はホテルの前を通り過ぎていった。
つかのまの安らぎ、
思わず漏れる溜息、
不意に訪れた理解、
カレルはそれらを素早い決断でまとめ上げ、紙袋から取り出した服に慌ただしく袖を通した。むろん懸賞金の件はフリッツに知らせてあったが、彼がこの騒ぎで出かけたとは考えにくかった。乱れたシーツの冷たさからいって、時間には相当な隔たりがある。
だとしたら、不幸にも間違われた子供を助けられるのは自分しかいない。
今後の展開を思い浮かべながら着替え終えたカレルは、最後の仕上げにドゥームカッターをポケットにねじ込んだ。
誰かを守るためには、他の誰かを傷つけなければならないこともあるだろう。
それはやむを得ないことかもしれない。
けれど光の剣を振るってまで、自分が守ろうとしているものとは何だ?
追われている誰か?
自分自身?
それとも、図らずも身代わりをたててしまったことで生まれた、自責の念の解消だけが目的だろうか?
巡る思いはそのままで、カレルは飛ぶように階段を駆け下りた。「鍵は部屋の中!」といい捨て、全速力でロビーを突っ切る。
だが背中を追ってきた思いがけない言葉に、ドアを押す手が止まった。
「お気をつけて」
耳への疑いを目で晴らすべく振り返ると、フロント係の少年は照れくさそうに視線を逸らした。それでも隠しきれない機嫌の良さが伝わってくる。何度読み返しているのかわからないほど痛んだ雑誌をつかむ指先が、細かいリズムを刻んでいた。
「あ……、うん」
昨日とはまるで別人の彼に対して、適切な対応など思い浮かぶはずもなかった。カレルはいささか間の抜けた返事だけを残し、勢いをつけて表通りに飛び出した。軋みながら閉まるドアの向こうの鼻歌が、いっそうボリュームを増したように聞こえた。
*
出遅れたハンデは、ほどなく取り戻すことができた。むろん目を血走らせた輩は先に行ってしまったが、あとを追う野次馬の足にそれほどの覇気はなかった。おかげでカレルは自分が行くべき道を見失わずに済んだ。
だらだらと続くジョギングの列を追いかけ、そして次々と抜き去る。
一旦は上がったペースが再び緩み、ゴールとおぼしき渋滞に減速を強いられる。
浮き砂に足を取られながらも歩を緩めると、ギャラリーなのか、プレイヤーなのか、中途半端で判然としない男たちが倉庫らしき建物を取り囲んでいた。薄く開けた鉄扉から代わる代わる首を突っ込んで、怖々と中の様子をうかがっている。
カレルは昨夜のお返しとばかりに、その人だかりに強引に割って入った。ハンマーやら角材やら物騒なものを持ち出してきたにしては、連中の腰は完全に引けていて、見かけ倒しの人垣はあっけなくばらける。
が、のぞき込んだ倉庫の中には二の足を踏む要因など何もなく、開け放たれた反対側のシャッターまでひたすらゴミが連なるばかりだった。
もとの色がわからないほど錆びついた冷蔵庫。
ブラウン管がすっぽり抜け落ちたテレビ。
モータとドラムを剥き出しにした洗濯機。
オクタヴィアでは資料館にさえないような古びたデザインが、壁際で静かにうずくまっていた。
薄暗いそこに強いコントラストを描く光の道筋を、カレルは躊躇せず一気に走り抜けた。シャッターの下をくぐり、外の眩しさに顔をしかめる。瞬間視界を覆った黄色いフィルターを透かして、そびえ立つゴミの固まりが黒く浮かび上がってきた。
二台の重機が裾で眠るその鉄くずの山の頂に、立ち竦む少女の姿があった。彼女を金そのものと見なす輩が、住宅なら三階建てに相当する高さを目指し、四つんばいで傾斜を這い上がっている。
ここはハニカム・サインを見せてでも、注意を惹くしかないか……。
先を争っても勝ち目がないと判断したカレルは、深呼吸を繰り返し胸のうちのアラームを静めた。
そうでもしなければ、
生け贄の少女のすぐ近くまで、
包丁を握りしめた男が右手から――。
どうして……逃げない?
カレルはそのとき気づいた。
イルムガルト人だろう色白で栗色の髪をした少女の表情に。
ボアつきのショートコートに包まれた立ち姿の余裕に。
彼女は、怯えて立ち竦んでいるわけではない。
良く見れば、むしろ怒りを押し殺した仁王立ちに近い。
その可愛らしくも険しい顔つきが乱暴に言い放った。
「まったく、しつこいなー!」
聞き覚えのある声だった。
カレルは急いで記憶を巻き戻した。
何故かフロント係の少年が大写しになる。
しかし彼ではない。彼の声はハスキーだった。
見切りをつけた脳裏のレンズが勝手にズームを始める。
カウンターの奥で揺れるカーテンにピントが合う。
ヤツェク……。
ヤツェクとふざけていた声?
「もう、いい加減にしてよ!」
高く差し上げられた少女の手から、紫色の光が立ちのぼった。
彼女はそれを自分の足元に突き刺す。
ドゥームカッターの膨大な熱量が、折り重なった鉄片のすき間を赤く染める。
似合わない唸り声。
こじるように引き抜かれる切っ先。
シュレッダーダストが弾け飛ぶ衝撃音に、カレルは咄嗟にしゃがみ込んだ。
両腕のガードをかいくぐり、焼けた鉄粉が高速で頬を焦がしていく。
たちまち駆け抜ける熱風。
すみやかにその場を治める相対的な静寂。
顔を上げると、ゴミに埋もれ呻く男たちがいた。
けれど平らにならされた頂上には、誰もいない。
カレルは消えた少女を探して、傾斜を緩めたゴミの山に近寄った。今生まれたばかりの危うい勾配へ慎重に踏み出そうとしたとき、誰かに足首を強く掴まれた。
「ぐえっ……」
驚きのあまりつい踏みつけてしまった顔が、欠けた前歯から苦しげに息を漏らした。
「わたしですって、坊ちゃん……」
足元には許しを請うようなドラガンの泣き顔があった。
「どうして、ここに?」
彼の下半身にのしかかるドラム缶に、カレルは身体を押し当てた。だが口を開けたそれはことのほか重く、まずは詰め込まれた鋳物の部品をかき出すところから始めなければならなかった。
「噂を聞いて舞い戻って来たんですがね。いや、あの娘を殺そうだなんて、端から思っちゃいませんよ。ただ上手く捕まえることができたら、家族にも楽をさせてやれるかなと思って。最近じゃトウモロコシの値段も下がってきていますし。何でもオクタヴィアでは工場でトウモロコシを作り始めたそうで、その影響らしいんですが――」
子供を狙った後ろめたさか、ドラガンは訊かれた以上の言い訳をぼそぼそと口にした。カレルが救出作業を完了させるまで、その勝手な言いぐさは続いた。
「で、坊ちゃんは気づきました?」
しかし自由の身になった途端、彼の口調は変わった。音量は同じでも、秘密めかしたそこに反省の色は薄かった。
「あの娘、わたしの目の前を走り去っていったんですよ。ゴミの山が崩れたすぐあとに」
「えっ?」
「伝えてもらえませんかね。旦那だったら捕まえられるかもしれないし。もちろん情報料は後払いで構いませんから」
カレルはあきれて腰を上げた。やはりこの男はまったく懲りていない。
「たぶんあの娘はホテルに荷物を取りに戻ってから、ミラダを出るつもりでしょう。ホテルの名前は、ミラダ・グランド――」
さらに声を潜めもったいをつけるドラガンに背を向け、カレルは錆色の道を急いで引き返した。もうひとりのエデンの子、気の強そうなあの少女と直接言葉を交わすために。
*
見渡すほどの面積もないロビーに人がいる気配はなかった。室内の暗さに目が慣れるのももどかしく、カレルはカウンターまで直行した。だが呼び鈴に手を伸ばしかけたとき、自分の鼓動とは違う微かな息づかいが聞こえてきた。ところどころささくれた一枚板から身を乗り出すと、押し殺した泣き声に合わせ柔らかそうな髪が揺れていた。
「どうしたの?」
「お兄ちゃんが……」
声どころか姿まで消え入りそうな態度で、小さな頭がおずおずと持ち上がった。目の周りにまで及んだ赤みが、もとから頬にさすそれと地続きになってしまっている。
「お姉ちゃんに……」
「お姉ちゃん?」
カレルははやる気持ちを押さえ、そっとカウンターを乗り越えた。膝を抱えるヤツェクの視線に相対すべく、身を縮めて屈み込む。
「もしかして、お客さんかな?」
頷いた丸い瞳が再び決壊した。すすりきれず糸を引いた鼻水が、ウサギの形をした膝あてにぽとりと落ちた。
「僕が悪いの、お姉ちゃんがヒーローだなんて、いわなきゃ良かったの。そしたら、お兄ちゃんは、連れて行かれずに」
「どこに?」
「わかんない……。でも」
「大丈夫。お兄さんのことは、僕にまかせておいて」
フェルトのウサギに擦りつけられる頭を撫でながら立ち上がったカレルは、ヤツェクが指し示す薄汚れたカーテンをはね除けた。事務室というには生活感が色濃い部屋を抜けると、そこはもう明暗差が激しい石畳の路地だった。
もちろん見回したところで、どちらに向かえば良いかわかるはずもない。
仕方なくカレルは運頼りで左に進路を取った。その過ちが明らかになったのは、一ブロックも行かぬうちだった。
呼びかけようとして開けた口が、何もいえずに空気を咀嚼する。
探す者の名前を訊き忘れるほどの焦心に舌打ちをしつつ、カレルは引き返そうと急ブレーキをかけた。それ自身意志を持っているかのような脚との間に若干の諍いが起き、生じたタイムラグのせいで四つ角をひとつ通り過ぎる。けれど一瞬目に止まった白い後ろ姿に、思考と身体の関係は一気に回復した。
「やめろ!」
元々あった建物が根こそぎ持ち去られたような空き地。そこを取り囲む粗末な木の柵を飛び越えながら、カレルは思いきり叫んだ。散在するコンクリートの破片を拾い上げ、光の剣をかざす少女の足元めがけて投げつけた。
「邪魔しないでくれる」
くるぶしをかすめたつぶてに動じた様子もなく、オフホワイトのショートコートがゆっくりと振り返った。袖口を飾るファーの向こうで、カレルの狙いどおり片膝をついた少年が息を殺して起き上がる。
「それとも、あんたも金目当て?」
「だったら、どうする?」
カレルは目を細めて少女を挑発した。早くも遠ざかり始めた少年の手にナイフが握られていたことを知って、もはやアシストする気は失せていたが、それでもヤツェクにいったことを嘘にはしたくなかった。
「どうするかは、あんたが決めることだと思うけど?」
声音を沈ませ少女が近づいてきた。
「いや、僕はどうもしない」
カレルははぐらかすように笑ってみせた。そして少年が曲がり角に消えたのを見届けて、小さく溜息を吐いた。
その視線と息の行方を追って、少女が後ろに首を回す。肩が細かく震えだし、横顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「あんたのせいで逃げちゃったじゃないの!」
「ちょっと待てって」
いきなり振るわれたドゥームカッターを、カレルは横っ飛びでかわした。思い描いていた会話プランの白紙撤回は決定的だった。興奮する口調そのままに、少女は矢継ぎ早に攻撃を繰り出してくる。
「まったく何だっていうのよ。あいつの仲間?」
「違うって、ただそんなもの振り回したら危ないだろ」
「あたりまえじゃない武器なんだから。危なくなきゃ意味がないでしょ」
「でも、あいつを殺したところで」
「死ねば良いのよ。人をたきつけて、しかもお金まで取って、それで自分は高みの見物? そんな都合の良い話があるわけないじゃない」
「いや、あいつの母親は病気で」
「知ってるわよ、それくらい! だからって、わたしを売っても良いの? 正当な理由があれば、何をしても許されるわけ? それに、だいたい盗み聞きするような奴は」
「違う、ヤツェクが話したんだ」
「ヤツェクが?」
カレルが窮屈ながらも顎を引くと、ようやく少女は動きを止めた。ただし仰向けになったカレルを見下ろすという、彼女にとっては絶好の体勢だった。
けれど追い込まれてもなお、カレルにはそれなりのゆとりがあった。ドゥームカッターの効果範囲を熟知しているらしい少女は、こちらの回避動作を見込んで絶妙な位置に光の刃を通してきた。つまり口でいうほど怒りにまかせているわけではない。結果アクロバチックなダンスを踊るはめにはなったが、身体は無傷で、寝ころんだ背中を刺す小石のほうがよほど痛いくらいだった。
「本当に?」
「ああ、本人から聞いた」
念を押してくる少女に、カレルは再び頷き返した。そうして下がった視線が、つい自分を跨ぐ二本の脚を追ってしまう。えんじ色の短いワンピースから伸びる太ももの内側に、否が応でも目が釘付けになる。そこに刻まれたハニカム・サインは、真ん中が塗りつぶされていた。
「どこ見てんのよ!」
「いや、その、ちょっと。違うんだって」
そんな暇があったら視線を遮れば良いのに、少女は両手でドゥームカッターを振り上げた。
もしかして、本気?
彼女の構えに余分な力を見て取ったカレルは、手のひらを向け攻撃の中止を訴えた。
「そうじゃなくて、君もファクトリーメイド?」
「ファクトリーメイド? このわたしが? 何いってるの、どう見たって正真正銘の人間でしょうが」
認識の違いに気づいても、それを説明する時間は与えてもらえなかった。火に油を注いでしまったカレルに、薄紫の熱気が襲いかかる。
「どこがリグレノイドだっていうのよ!」
目を瞑ったカレルの右頬を熱い風が過ぎった。瞬時に感度を増した神経が硬直した身体の無事を伝えてくる。ただし右肩にはひんやりとした感じがあり、せっかく買ってもらった服が裂けたことは間違いないようだった。
それにしても……とカレルは薄く目を開け、打って変わった静けさを確認した。黙り込んだ少女は、もう身体の上にはいなかった。脇に退いて腰をおろし、むき出しになったカレルの右肩をじっと見つめている。
「あのさ、ファクトリーメイドっていうのは、工場製の意味じゃ」
「ううん、ごめん。思い出した。オクタヴィアでは水槽から生まれてくる子供がいるって。でも、わたしは違うよ。痣は生まれつき。きっと、あんたもそうだと思う。もし他の子にあるっていうのなら、それはダミーだよ。カレル、あんたを隠すための」
「えっ……?」
突然、もたれかかるように少女が身を寄せてきた。
名前を呼ばれたことより、その接近ぶりがカレルには驚きだった。
見開いた目が彼女の顔に覆い尽くされる。
あれほど動きながらも乱れていない息が近い。
喉を落ちるひとかたまりの唾液。
凹んだ鼓膜がたてるあさましい音。
それが表に漏れていないか心配になって、カレルはブルーグレイの瞳を直視できなかった。
「なんてね」
ところが思わせぶりな唇は舌を出し、カレルの前髪をかすめながら急上昇した。見計らったようなタイミングで、空き地の隅から声がかかる。
「エーファ」
母親だろうか、少女と同じコートを着た女性が手招きをしていた。それに大きく頷いたミディアムボブの毛先が弧を描き、カレルの頭上に影を作った。
「じゃあね」
膝に片手を突いて腰を屈めた少女は、まるで子犬に話しかけているみたいだった。イルムガルト流の挨拶なのか、顔の横で拡げた指が何かを揉むように動いている。
「もう少し話せないかな? 訊きたいことがあるんだけど」
「また会えるから、そのときにね」
姿勢と口調のせいか、一応の受け答えもカレルには軽く聞こえた。その印象に輪をかけるような軽快さで少女が綺麗なターンを決める。ペット扱いされてまで追いかける気にはなれず、小走りで去っていく彼女をカレルは黙って見送った。
毛羽立った装飾のせいで一見やわにみえるけれど、ボディアーマーを思わせる素材で出来たコート。
激しい動きを妨げることのない、リグレノイドのユニフォームに似た伸縮性の高いワンピース。
見る角度によっては安全靴と間違えそうな、細身ながらも底が分厚いアンクルブーツ。
遠ざかるアイテムはどれも、少女にエデンの子としての自覚がある証に思えた。彼女が多くのことを知っているのは疑いようもなかった。そのうえ顔色から判断がつきやすいとくれば、カレルにとってくみしやすい相手でもある。非協力的なフリッツから探るより断然お得な情報源といえるし、それに同級生のような彼女とならば色々と話も弾むかもしれない。
でも、本当に再会できるのだろうか?
エーファ……、彼女がいったように。
見えなくなったお揃いのコート姿に代わって、カレルの脳裏で灰色混じりの青い瞳がアップになった。しだいに画面は引いていき、つんと尖った鼻先が遠のく。そして暗転。次にスポットライトが当たったのは、ワンピースの裾から覗く太ももだった。
「随分と暴れたみたいだな」
やにわに降ってきた黒い物体が、忘れられそうもないその映像を遮断した。たいして重くはなくとも、油断していた腹筋が敏感に縮む。それを引き伸ばすように、カレルはワンショルダーを抱えながら後ろを見上げた。
「街中大騒ぎだったぞ」
まるで他人事のようにいうフリッツの口元には、何故か照れ笑いの様相があった。遠くを懐かしそうに見つめる視線と相まって、今までのイメージを打破するといっても良い穏やかな表情だった。しかし背中についた砂ぼこりを払ってくれ、さらには裂けた肩口にバンダナを巻いてくれるとあっては、気味が悪いことこのうえない。
「僕のせいじゃないですよ。だいたい、あのフロント係が」
「まっ、誰しも自分の都合を優先させるもんだ」
過剰なフリッツのサービスを受け入れながらも、カレルは警戒心の片隅に疑問を募らせた。歩き出した彼の横顔をうかがい、親切の裏側にあるロジックをどうにか解き明かそうとした。
そういうことか……。
今まで何度も無駄になったその種の努力が、表通りに停めてあった車に乗り込んだ途端、思いがけず実を結んだ。持ち主を示すようなものがほとんどない車内で、後席に座る熊のぬいぐるみが目につかぬはずはなかった。汚れなのか判別できない灰色の短毛と四つ穴ボタンの瞳が年期を感じさせるそれは、丁重にもシートベルトで固定されていた。
カレルは慎重を期して、導き出した結論と記憶を照らし合わせた。思ったとおり矛盾はないようだったが、どう切り出そうかと考えあぐむ。正面切って訊いたところで、明快な答えなど望むべくもない。
「そのぬいぐるみは娘さんのですよね?」
そうしてしばしの熟慮の末、質問にかこつけた確認をカレルは口にした。話の主導権を渡してなるものかと、自信を湛えた口調でさらに追い討ちをかける。
「彼女とさっき会ったんですけど」
しかし予想に反して、カレルの意気込みはあっさりと肯定された。
「ぬいぐるみってタマじゃなかっただろ。でも、あれで案外寂しがりやでな。小さい頃は、その熊を離さなかったもんだ」
唖然と向けた視線をよそに、涼しい顔がスムーズにステアリングを回す。嫌がらせかと思うほど、その所作のどこにも気負った感じはなかった。
「やっぱり、ドラガンに話した僕のプロフィールって」
「もちろん娘のことだ。正直者の俺が、あんな作り話を思いつくはずがないだろう」
投げやりにも聞こえるフリッツの声はあくまでも冷静で、そして憎々しいまでに悠然としていた。図々しいばかりの自己分析にも、どことなく説得力を感じる。
「できれば仲良くしてやってくれないか。ああ見えてもエーファには優しいところもある。それにエデンの子はふたりきりだしな」
前方に放たれた掴みどころのない言葉に、カレルはゆっくりと首を縦に振って応えた。頼まれるまでもないそのつもりを声に出せば、本来の自発性が著しく失われるような気がした。
「ありがとう……」
ほんの少し前だったら大げさに反応しただろう、らしくない呟き。
けれどカレルの胸のうちは不思議と波立たなかった。気づけば現実と理解に目を丸くするほどの隔たりは存在せず、さりげない頷きをもってそれに対処することができた。
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