from EDEN

Prologue / to EDEN



 灰色の防塵塗料が塗られた床に、ステンレス外装のタンクが並んでいる。その分厚い断熱層を内包する円筒形の前で、アレクセイは胸に手をやり、シャツの下の十字架を握り締めながら、腫れぼったい両の瞼を静かに閉じた。これが最後の一台、いや最後の一人といったほうが適切だろうか。彼はそうしてひとしきり祈りを捧げたあと、タンク脇のタラップに足をかけた。漏れる息が微かに白い。この殺風景なフロアの空調設備には冷却コイルしかなく、今の時期は冷たい外気をただ素通しするだけであった。
 およそ人に優しくない急角度の階段を上りきり、アレクセイはクライオニクス・エリアを見下ろすガラス張りの部屋のドアを開けた。過剰な明るさに顔をしかめつつ、監視コンソールのカードリーダに、首からぶら下げているホログラムメモリをかざす。起動を示す赤色LEDの点滅とともにせり出してきたトレイに顎をのせ、その下で口を開けた長方形の窪みに節くれだった右手を差し入れる。間を置かずして短く電子音が鳴り、彼が彼であることが証明された。冷却ファンが僅かに音を増し、正面に据えられた三台のモニターに明かりがともった。
 アレクセイはそのうちの一台に歩み寄り、無骨な手にはいささか小さすぎるマウスを摘むようにして持った。画面にはシステムを図案化したサマリグラフが映し出されている。彼は分散制御シーケンサの群発停アイコンをポイントして、現れたメニューから[停止]を選んだ。続けて表示された確認のダイアログにも「OK]と返す。その指示を待ち焦がれていたかのようにメッセージプリンタが嬉々として身を震わせ、アイコンの色が赤から緑に変わった。
 それを横目で確認しながら隣のモニターの前に移動したアレクセイは、着古した白衣のポケットから取り出した小さな鍵を、コンソールデスク上の鍵穴にさし込んだ。指先を右に捻ると、耳障りなアラームが鳴り始める。アレクセイはその音に構うことなく、T字型のハンドルスイッチを順に引き回し、手際良く電源を遮断していった。
 一連の操作を終えたときには、徹夜続きのアレクセイを悩ませていた明るすぎる天井灯と、不快な電子音は消えていた。眼下に広がるステンレスタンクの列も、今や非常照明の仄かな光を淡く反射するだけだった。しばらくその光景に見惚れるアレクセイの顔に浮かんだ薄い笑みを、バックアップ電源の保証時間を示すデジタルの赤い数字が照らし続ける。やがて、明滅しながら減ってゆくカウンタに目を留めた彼は、納得したように二回ほど頷くと、しわだらけの白衣の裾をひるがえし、入ってきた方とは反対側にあるドアへ向かった。


 施設の中心部へと真っ直ぐに続く長い通路を、アレクセイは両手を振り大股で進んだ。左右の壁の高い位置に取りつけられたパッシブセンサが、上機嫌なときの彼の癖である大きなモーションを捉え、そして導くように数十フィート先までの照明をつけていく。しかし前方からこちらに向かって近づいてくる白い影の周囲は薄暗いままだった。もちろんそれとて熱を発していないわけではないが、その分布の特異さゆえ、融通の利かないセンサの感知を逃れているのである。
 とはいえ何らかの気配を感じ、歩を緩め正面の闇に目を凝らしたアレクセイは、彼女の正確な足取りが常夜灯の橙色の中に浮かび上がるのを認めると、通路の左端に進路を変えた。この研究所内を左側通行と定めたのは、他ならぬ彼自身であった。
 そうして譲られた軌道上を、ほとんど音もたてずに彼女が通り過ぎていく。そばに誰がいようとも一顧だにしない態度は、いつもと変わりなかった。
「ユリア」
 アレクセイは彼女の名前をそっと呼んだ。特に用事があったわけではないが、今日ならば多少なりとも人間的なやりとりができるのでは、とあり得ない期待をしていた。
「何でしょうか? 博士」
 発せられた微細な音の波を聞き分け、けちのつけようがない理想的な動きでユリアは振り返った。ふわっと浮いた毛先が描く曲線も、それが舞い降りる速度も、全てが計算されているようにみえた。ただし端正な造りの顔に浮かぶ表情は未だ硬く、判断がつきかねている様子がうかがえた。彼女の視覚情報に取り込まれる寝不足なアレクセイの姿は、その優しげな声に反して、不機嫌極まりないものに違いなかった。
「指示の変更ですか?」
 呼びかけてはみたものの何のプランもなく、一瞬反応が遅れたアレクセイに向かって、ユリアは首を傾げ軽く微笑んだ。状況が不明なときには、たいていそういった仕草が有効だと彼女は知っている。
「いや、なんでもない」
 といい切りかけて、アレクセイはあわてて継ぎ足す言葉を探した。特製のラバーシューズに包まれたユリアの左足は早くも後ろにひかれ、次の動作へと移行していた。
「ところで、マスター変更の件は聞いているかな?」
 ユリアは即座に動きを止め、アレクセイの方へ向き直った。「二十八分十七秒後ですね」時計も見ずにそう答える。
「ああ、よろしく頼む」
 アレクセイが曖昧な表現で返すと、再び彼女は例の魅惑的なポーズをとった。「私に影響がありますか?」
 先ほどと寸分違わぬそれに、アレクセイは失望を隠せなかった。
「いや、君の職務は今までどおりだ」
 そして一息の間、灰色混じりの青い瞳を覗き込んだ。瞳孔が絞られ、自分の表情が詳細にスキャンされているのがわかった。
「もう行っていいよ、ユリア」
 溜め込んだ息を細く吐き出し、アレクセイはあきらめの口調で指示を与えた。彼女に例外などあるはずもなかった。
 無言のまま背を向けたユリアは、また通路の奥へと歩みだした。肌に密着した白いワンピースが徐々に闇に溶け込んでいく。アレクセイはそれをずっと見守った。身重の妻が遺していった彼女の面影そのままの姿から、どうしても目が離せずにいた。