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夏の日の終わり。
地下鉄のホーム。
冷房は効いているのだろうが、妙に蒸し暑い。
銀色の車体が現れるたびに、汗の粘り気が増してゆく。
肌に貼りついたシャツの淡い紫が、色合いを深めてゆく。
目を閉じた郷田伸彦は、あごの先から落ちる雫もそのままに、長く待ちわびた瞬間を想像していた。けれど、いくら思いを巡らせても、彼の望む情景が瞼の裏に浮かぶことはなかった。
きっと、あの人は拒絶する……。
そのとき、僕はどうすれば……。
やっぱり、あの小説のように……。
悲観的な結論に支配されつつあった伸彦の頭に、列車の到着を告げるアナウンスが飛び込んできた。ゆっくりと目を開けた彼は、近づいてくる振動を足元に感じながら、深い溜息を吐いた。
でも、何があっても伝えなければ……。
そう決意した伸彦は、ポケットの中のナイフを汗ばんだ手で握りしめた。
* * *
俯きながら平文(へぶん)ニュータウンのホームに降り立った石田真二は、一番端にあるベンチに腰掛けた。すぐにでも立ち去りたい気持ちがしたが、ここで待つしかなかった。乗り継ぎの際に、保護司の田中とはぐれてしまったからだ。
彼は、暗い青に鮮やかな赤のタイトルが印象的な『誰モ君ヲ知ラナイ』という本を携えていた。その薄めのハードカバーは、3日前に保護施設の真二宛に匿名で送られてきたものだった。
真二が5年前に起こした事件を準えた小説は、出てくる固有名詞が実在のそれにごく近いという際どさを売り物としていた。お約束通り、冒頭のページに『この物語はフィクションであり、実在の人物・団体名とは一切関係がありません』と記されてはいたが、それは取ってつけた言い訳のようなものだった。
当初はウェブ上で公開されていた問題作は、その際どさが話題となって単行本化された。最近のベストセラーランキングの上位には、必ずと言って良いほど顔を出してくる人気作でもあった。
真二は『誰モ君ヲ知ラナイ』を膝の上に広げた。栞は残り10数ページのところに挟んである。田中待つ間に読み終えるくらいの、ちょうど良い分量だった。
5年前、平文(ひらあや)ニュータウンで起きた連続児童殺人事件の犯人である相沢友弘は、その年の春に医療少年院を退院し、都内某所の保護施設で暮らしていた。新しい生活にも多少慣れてきた或る夏の日、彼は保護司と共に被害者へ謝罪するため5年振りに平文を訪れた。
人目を避けるようにホームに降り立った友弘と保護司の田辺に、後ろから見知らぬ少年が声をかけてきた。
「相沢さんですよね? 僕、ずっと貴方を待っていたんです」
彼らは人違いだと押し通し足早に去ろうとしたが、尚も少年の声は追いかけてくる。
「僕は、この世界でただひとり貴方を理解する者です」
このままではホームにいる他の人間にまで気づかれてしまう。と、田辺は友弘に先に行くように小声で指示を出した。小走りで走り去る友弘を横目で追いながら、少年をどうにか引き下がらせようと後ろを振り返った。しかし、走り出していた少年は田辺の鼻先を掠めるようにして友弘の後を追って行った。
駅前広場で友弘は少年に追いつかれた。
「待ってください、僕は……」
あと少し時間を稼げば田辺が来るはずだが、それに気づかぬほどに友弘は冷静さを失っていた。この平文にいるということだけで、既に彼の心には大きな重圧だった。
友弘は少年に向かって話し始める。
早口ではないが相手に口を挟ませない速度で。
怒っているわけではないが断定的に。
そして、冷たく。
「君は僕を理解できないし、理解して欲しいとも思わない。それを望んでいるのは君の方だろ?」
悲しみを帯びた失望の色を一瞬見せた少年の瞳は、瞬く間に憎しみに彩られていった。
「貴方は変わってしまった。僕は貴方が失したものを今でも大切に持っているっていうのに」
友弘は咄嗟に確認した。いや、感じたと言った方が正しいのかもしれない。少年の手に握られているナイフは、間違いなく、あっちゃんの血にまみれたもの……。
胸に鋭い痛みを感じ膝から崩れ落ちた友弘は、薄れゆく意識の中で不思議な夢を見た。
記憶を失した自分が平文をさまよい、昔の自分を探している。
幼い頃の、母の思い出。
小学校の教室。
やがて、子供を殺す自分。
1人目は、街が見渡せる高台。
2人目は、人を見下ろせる屋上。
そして『絶望の樹』と名づけた大木に、あっちゃんを縛りつける。
自分だけの場所だと思っていた森の奥にある神社。
待っていてくれた君、もうひとりの自分。
記憶が鮮明に蘇るほど、夢の終わりに近づいてゆく。
「のりちゃん?」
友弘は自分を刺した少年の名前を思い出し、短い夢から覚めた。少年を見上げた友弘は、そこに5年前の自分がいるような気がした。
『誰モ君ヲ知ラナイ』を読み終えた真二は、奥付の著者紹介を確認した。そこには、この作品がデビュー作だという作家の名前と、ホームページのURLだけが記載されていた。それを息を殺して見つめる真二の頭の中は、不安と疑問がないまぜになっていた。際どさが売りの小説には、誰も知らないはずの真相が書かれていたからだった。犯行に使ったナイフの行方は、警察さえ知らなかった。あの日、森から走り去って行く小さな影を見たとき、このことは話すまいと心に誓った結果だった。
混乱する真二の前に、いつの間にか田中が立っていた。自分がモデルとされた小説をのめり込むように読んでいた真二は、しばらくそのことに気がつかなかった。
真二はダークブルーの真新しい本をベンチに残したまま立ち上がった。これから謝罪に行く自分が持つには相応しい本ではなかったし、田中が肩から掛けている黒いナイロンのボストンバックは何も呑みこむ余裕がないほどパンパンに太っていた。それに、真二はあの本が少し怖くなっていた。作者への好奇心を含む微妙な恐怖ではあったが、それゆえに自分が触れてはいけないもののように思えた。
* * *
額をハンカチでペタペタと叩く暑苦しい小太りな中年男が彼と話をしているのを見て、ようやく伸彦は先程からホームの端のベンチに座って本を読んでいる若い男が石田真二だと確信した。随分と前から気になっていたのだが、真二ひとりで来るはずはないという思い込みが、彼の目を曇らせていたのだった。
ひとりのときに話しかけていれば、と伸彦は後悔した。だが、彼にはまだ運が残っていた。真二が座っていたベンチの上に、紺色の幸運がそっと置かれていた。それを見つけて伸彦は走り出した。こちらに向かってくる真二とすれ違い、『誰モ君ヲ知ラナイ』を手に取った。振り返ると、まだ真二は声の届く範囲にいた。伸彦は心の中で精一杯の感謝を捧げた。それは神様にではなく、4日前の自分に対してだった。そして、大きく深呼吸した後で叫んだ。
「これ、忘れてますよー」
* * *
「僕は、この世界でただひとり貴方を理解する者です」
小説と同じセリフを口にした伸彦に、真二は近づいて行った。
手が届くほどの距離になったとき、伸彦はポケットに突っ込んでいた手を真二に向けた。その手にはナイフが握られていた。鞘のないナイフの刃には黄ばんだ包帯のような布が何重にも巻きつけられていた。
「のぶちゃん?」
真二の頭の中で、目の前の少年と、森から走り去って行った小さな背中が重なった。
「これを返そうと思って……」
伸彦はナイフを持ち替え、柄の方を真二に向けて差し出した。
真二は後頭部を掻きながら、そっと肩越しに後ろを覗き見た。田中は気を使っているつもりなのか、あさっての方を向いていた。
「そのまま、のぶちゃんが持っていてくれると、ありがたいんだけど」
真二は声を小さくして言った。
「いいんですか?」
真二は黙って頷いた後で、腕時計を見た。
「あのー真二さん。時間がないのはわかっているんですけど……お願いがあるんです。今日はこの近くに泊まって、明日もまわられるんですよね……」
「そうだけど。良く知ってるね、そんなこと」
「あっ、それはコウちゃんの親父さんから聞きました」
「ああ……そうか。それで?」
「明日、僕の家に寄ってもらえないかと……」
意外な申し出に、真二は腕組みをして唸った。伸彦の縋るような目を見ていると、無下に断る気にはなれなかった。
結局、田中の許可を取り、明日2件の謝罪を済ませた後で伸彦の家に寄ることになった。彼がわざわざ取ってきてくれた紺色のベストセラーは、それまで預かってもらうことにした。
* * *
翌日の午後2時頃、伸彦の家に着いた真二は疲れ果てていた。予想通り、被害者の家を訪問するのはキツイ試練だった。訊かれたことには素直に誠意を持って答えたつもりだったが、当時の心理には自分でさえ判らない部分があった。当然、他人の理解が及ぶはずもなかった。しかし、それを知っていながらも説明することが、今の真二にできる唯一のことだった。
謝罪を終えて被害者の家を出るたびに、この5年間で身に着けた自分を肯定する気持ちが根底から崩れてゆくような気がした。当時の自分が求めていた本当の憎しみに、今日初めて出会ったと感じた。それは、時を過ぎて薄れゆくのではなく、徐々に凝縮し密度の高い重しとなって心の底にはっきりと姿を現すものだと知った。やはりあのとき死んでいれば、という思いが何度も胸を過ぎった。だが移動の最中励まし続けてくれる田中を見ていると、そう思うこと自体が彼を裏切る行為だと気づいた。
やたらと愛想良く出迎えてくれた伸彦の母と田中を1階に残し、真二は伸彦と共に彼の自室へと階段を昇って行った。部屋に入るなりパソコンの前に座ってブラウザ―を立ち上げた伸彦は手招きをして、真二にそれを見るように促した。紺色の画面には灰色の文字で『田郷和友の部屋』とあった。『誰モ君ヲ知ラナイ』の作者のホームページだった。伸彦は手馴れた様子でクリックを繰り返し、『Heaven下巻』と書かれたページを表示させた。画面を見つめたまま「ここ、読んでみてくれませんか」と、真二に向って言った。
言い訳めいた作者の前口上がついたその文章は、『誰モ君ヲ知ラナイ』の本編からはみ出してしまった、作中作の後編だった。
読み終えた真二からマウスを受け取った伸彦は、ラスト間際の一行をポインターでなぞり「真二さんは、これをどう思います」と訊いた。それは『自分の存在なんて、自分自身が肯定すれば良いじゃないか!』という主人公のセリフだった。
真二は思いを巡らせるように、しばらく意味もなく天井を見上げた後で答えた。
「たぶん、正しいよ。きっと、それしかないんだと思う。でもさ……少し寂しいよね」
* * *
結局、伝えなければならないことは言い出せなかった。
けれども、きっと真二は気づいてくれたはずだ。
自分の部屋の窓を少し開けて遠ざかる2つの影を見送っていた伸彦は、真二の『想像と理解』を心の底から願っていた。
* * *
真二と田中は肩を並べ、駅に続く道を歩いていた。
「伸彦君とは何を話した?」
「これのことばっかりでした」
真二は、汗で紺色のカバーが少しふやけてしまった本を田中にかざして見せた。
「田中さんの方は?」
「いやー、それがさー。伸彦君あまり学校に行ってないみたいでさぁ、お母さんに相談されちゃったんだけど」
上手いアドバイスが出来なかったのか、田中は困った顔をして言った。
「それで、良いんじゃないですか。学校に通える人間はいっぱいいるけど、中学生の作家なんて聞いたことないですよ」
「あれ?……伸彦君から聞いたの? 俺はお母さんから聞いたんだけどね。なんか恐縮されちゃってさ」
「いえ、そのことに関して、彼は何も言いませんでした。今考えると、彼は僕に気づいて欲しかったんだと思います。だから、あえて言わなかったんじゃないのかな……」
「じゃあ、真二君は見事に彼の期待に応えたわけだ」
「でも、わかっているとは言わなかったですから」
「大丈夫。きっと、真二君の理解は、伸彦君に通じたと思うよ」
「そうだと、良いですけど……」
いつも通りの前向きな田中の言葉に、少し気が楽になった真二は顔を上げた。平文に着いてから俯きっぱなしだった真二の目に、5年振りにはっきりと自分が生まれ育った街が映った。遥か前方に見える駅ビルの上には、この時間になっても衰えを見せない夏の太陽があった。それをまともに見てしまった真二の瞳は、ハレーションを起こした。
そして、彼は一瞬錯覚する。
駅に続く舗道が、腐った落ち葉を敷き詰めた森の小径に見えた。
あの夏の日、理由もない焦燥を抱えた13歳の自分が歩き続けた、途切れそうなほど細く入り組んだ道に見えた。
─── 了 ───
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