居ぬ神



 黄色いジャンパーのきびきびとした動きを、圭子は感心しつつ眺めていた。『ほんわかワンニャン』と白抜きされた背中の文字が、上へ下へとせわしなく交差する。小さな地方局ではあるけれど、スタッフにはやる気に溢れた若い人が多かった。みな親切で、てきぱきと働いている。地元では割と人気のある番組だけに、気合いのいりも違うのかもしれない。
 圭子が『ほんわかワンニャン』にハガキを送ったのは、二週間まえのことだった。食欲の権化である愛犬、黒パグのエックスに関する不思議な出来事を記して投函した。主の留守中に盗み食いするのが長年続くエックスの習慣だったが、このところ目にみえて太りだしてきたため、ストックの置き場所を冷蔵庫の上に変えたのだ。しかし圭子でさえ取り出しに困るようなその高さも、彼の欲求の障害とはならなかった。もちろん目撃したことはないけれど、買い物から帰ってくると、決まって冷蔵庫の周りにはむさぼり食った残骸が、掃除するのも嫌になるほどばら撒かれているのだった。
「準備できました〜」
 インカムを首にかけた女性のスタッフが声をかけてきた。それほど歳は変わらないようだが、自分よりも若々しくみえる。ふっと溜息を洩らしながら圭子は立ち上がった。やはり結婚するのが早すぎただろうか。もっと独身時代を謳歌するべきではなかったか。
「それじゃ、出かけてくるからね。ちゃんとお留守番してるんだよ」
 圭子はいつものように、抱き上げたエックスに鼻をすり寄せた。彼の顔をみると、どんな憂鬱もさっぱりと忘れられる。夫に対するそれとは、まるっきり正反対の気持ちになれる。
「じゃあ、お願いしま〜す」
 もう、はつらつとした声を聞いても、圭子は動じなかった。普段と同じラフな服装でサンダルを突っかける。足元にまとわりつくエックスは尻尾を振っていた。これから始まる豪勢なランチタイムに、心弾ませているのかもしれなかった。


 裏庭に面する路地に、白いワンボックスカーが停まっていた。スタッフに促され、圭子はビニールレザーのシートに腰を降ろした。運転席との間には放送機材を収めたラックがあった。天井からは二台のモニターがぶら下がっていた。
「始まりますよ」
 隣に座ったディレクターは、圭子を一瞥するとモニターに目をやった。腕組みをした姿が若い割に様になっている。
 頷いた圭子も若干背中を浮かしつつ、画面に映るキッチンを注視した。モニターを通すと、見慣れているはずのそこが、何故か遠いところのように感じられた。
 そうして黙ってモニターを見続けるという、ちょっと気詰まりな時間が一分ほど過ぎて、ようやく黒い影が画面の右手から現れた。警戒する様子もなくすたすたと歩いてきたエックスは、そそり立つ両開きの白いドアの上、大好物の『ワンダフル・バタークッキー』を見上げた。成犬は一日二袋までと決められているそれを、全部平らげるつもりに違いなかった。
 首の皮が幾重にもたるんだエックスの後姿を、圭子は息を飲んで見つめた。確かにこういうシーンはありがちだし、『ほんわかワンニャン』でも良く放送される。そして大抵そういった場合、主役は大型犬であったり、飼い主さえ気づかない秘密の経路が隠されていたりする。
 しかしエックスは小さい。モニター越しにみると余計そう感じる。くわえて綺麗好きというか、それしかやることがない圭子のキッチンは、とてもすっきりと片づけられていて、エックスの足がかりとなるものが一切ない。
(頑張れ、エックス……)
 いつしか圭子はエックスを応援していた。立ちはだかる壁に挑むエックスが気の毒にも思えてきた。
 両手を合わせ祈るような気持ちで見守る圭子の前で、しかしエックスは一向に動こうとしなかった。しゃっくりが止まらないのか、小さな背中を震わせるばかりだった。
(もう、肝心なときに駄目なんだから……)
 圭子はがっかりして、シートに背中をもたせかけた。これではせっかく来てくれた『ほんわかワンニャン』のスタッフに申し訳ないし、それにどうやってエックスが冷蔵庫の上に登るのかわからずじまいで終わりそうだった。
(えっ、どうしたの?)
 だが圭子が油断して目を離した僅かな隙に、エックスの背中の揺れは急速に激しくなっていた。ひきつけでも起こしたかのように、黒い毛並みが艶やかに波打つ。
 腰を浮かした圭子は目を凝らし、エックスの様子を確かめた。小さな背中が何かを突き上げるようにリズムを取っていた。その間隔は徐々に狭まり、振幅は増してゆく。
(…………)
 飲み込んだ唾のせいで張り詰めた圭子の鼓膜に、形容しがたい音が響いた。これ以上ないくらいに身を丸めたエックスの背中から、不意に赤黒い液体が噴き出した。痙攣している黒い毛の上を、溶岩のようにどろどろと広がり落ちる。四肢を突っ張らせた小さな身体が、瞬く間にぬめぬめとした膜に覆われてゆく。
 そして痛々しく折れ曲がった背中の裂け目を押し広げながら、先が丸まった細い指が現れた。油にまみれたようなエックスの毛を鷲づかみにして、赤黒い全身を引き上げる。おぞましくも奇妙な生き物は、ナマコの皮をかぶった犬のおもちゃにみえた。二本足で歩く擬人化された犬だった。
 そいつは白い牙から水飴のような液体を滴らせながら、ぺしゃんこになったエックスの身体を乗り越えた。染みひとつない冷蔵庫の表面に張りつき、さながら匍匐前進といった動きでゆっくりと上へ這いずってゆく。
 しかし圭子の目は、そいつを真正面に捉えてはいなかった。呆然としながらも、毛皮の敷物と化したエックスにピントを合わせていた。
 その極端に絞られた視界の中、唯一もとの形を偲ばせるエックスの頭がぴくっと震えたように感じて、圭子はようやく我に返った。車内から伸びるケーブルの束に足を取られながらも、急いで玄関を目指した。途中で誰かに肩をつかまれたが立ち止まらなかった。かけられた声にも返す余裕はなかった。
 圭子は不必要なほど強くドアノブを引いた。何も怖くはない。エックスを心配するあまり、恐怖心は隅に追いやられていた。
 ドアを開けた途端、吸い寄せられた空気とともに、足元を何かが駆け抜けていった。いつのまにかサンダルが脱げて裸足だった圭子は、その感触に全身の力が緩んでゆくのを感じた。
「エックス!」
 振り返りながら、圭子は思い切り叫んだ。何がどうなっているのかわからないが、ちょこちょこと駆けてゆく黒い背中はエックスに間違いなかった。
 だがエックスは立ち止まらなかった。それどころか彼にしては全速力、もちろんそれも可愛らしくはあるが、ともかく圭子からは遠ざかってゆくばかりだった。
「ちょっと待ってよ! エックスってば」
 追いかけようとした圭子だったが、今頃になって自分の足の裏がぱっくりと切れていることに気がついた。けれどもう心配はいらなかった。夕方になればきっとエックスは戻ってくる。舞い散る桜のピンク色で舗道が染まるこの季節、エックスには独りで散歩に出かける習慣があった。


    * * *


「じゃあ、もう一回だけ話してあげるから、今度はちゃんと覚えるんだよ」
 彼はそういって、成瀬と田島の顔を見比べるように視線を巡らせた。そして二人から無言の頷きを引き出すと、一息おいてから続けた。
「僕はよく虐められていたからさ、何かあると授業をさぼって裏の森の神社へ逃げるんだ。おじさんたち知ってる? あそこは誰も寄りつかないんだよ。うちの隣に住んでいるおじいさんがいうには、ここら辺を買い占めた不動産屋が開発途中で潰れちゃったから、神社の周りだけ手つかずのまま残っているんだって。でも、この近辺の人間って、みんな引っ越してきた奴ばかりでしょ。だから、あの神社のことを知っているのは、学校じゃ僕ひとりってこと」
「君はどこの学校に通っていたのかな?」
 田島が口元を引きつらせながら訊いた。無理に微笑もうとしているのは、成瀬の目にも明らかだった。
「それも忘れちゃったの?」
 彼は呆れたふうに頬をふくらませ、 「も、も、の、は、小学校。あの辺で小学校といったら、そこしかないじゃん」
 といったきり、横を向いてしまった。
「ごめんな、おじさんたち馬鹿なんだよ。純くんも大人になればわかると思うけど、歳をとるとね、頭の回転が鈍くなっちゃうんだ」
 不本意なご機嫌取りを余儀なくされた成瀬は、テーブルの下で田島の足を思いっきり踏みつけた。タバコをもみ消すようにぐりぐりと、かつ念入りに踵を捻り込む。併せて殺意を込めた視線も、狙いを外さぬよう丁寧に進呈した。
「それで、あの日その神社で何があったか、もう一度教えてくれると助かるんだけど」
 泣き顔で謝罪と服従の姿勢を示してきた田島を無視して、成瀬は限界まで下手にでた。こういった方面において、仕事中の成瀬の許容値は割りと高いほうだったが、それでも臨界点はすぐそこに迫っていた。
「うん、良いよ」
 彼は目を輝かせ、急に笑顔になった。その部分に話が及ぶと前のめりになって熱心に語り始める癖は、成瀬にとってここ数時間で唯一得られた観察結果だった。
「あの日も達也と浩二が何か企んでいるのがわかったから、給食を食べてすぐに神社に行ったの。そしたら眠くなっちゃって、ほら満腹になると眠くなるっていうでしょ、それに前の夜は遅くまでゲームをやっていたし。それでいつのまにか昼寝をしていたら、頭のほうで名前を呼ばれたんだ。掠れた声で『純、純』って繰り返すの。僕はまだ寝てたかったんだけど、あんまりしつこいから仕方なく起き上がってみたら、そこにイヌガミさまが立っていたんだ。最初はビックリしたよ、でもよーく見るとカッコ良いの。顔はドーベルマンみたいなんだけど、もっと頭が良さそうな感じだし、背は僕より全然高くて、動くとガシャガシャいう鎧を着てた。で、その鎧のひとつひとつについていたマークが、さっき書いてあげたやつ。あの三角形と逆三角形を重ねて頂点を結んだ六角形の紋章ね。あれが鎧の各パーツに浮き彫りになっていて、それが光るの。こういうと何かちょっとロボットっぽいんだけど、でも実際見るとけっこう感動ものなんだ」
 聞いているだけで本当に頭の回転が鈍り、しまいには逆回転しかねない話は終りそうになかった。延々と独演会を催す彼に向けた目が、しだいに腐ってゆくのを成瀬は感じた。こんな与太話をあと何回聞けば、職務を果たしたと認められるだろうか。もう充分なような気もする。
「そんなイヌガミさまから、あの女を殺せって命令されたら、誰も逆らえないよね。相手は神さまなんだし、それにあの女は本当に自分の飼い犬を虐待していたんだから。僕も学校に行く途中で見たことがあるんだ。いっぱいいる犬のうち、今日はこの子って決めて集中的に虐めるんだよ。だからあの女を殺したことは正義だと思う。僕はイヌガミさまによって、正義に目覚めたんだ」
 成瀬は心の中で、自分の我慢強さを褒めちぎってやった。と同時にそれを手放すことにした。憎しみや怒りを帯びがちな目線を、できるかぎり中和して田島に送る。いささか鈍感な男もどうにかその意図を受信したらしく、成瀬に続いて椅子をそっと引き、立ち上がった。部屋の片隅で記録していた制服の肩を叩いて、何度も塗りなおした塗料のせいで重くなった感じがする、動きの悪い灰色の鉄扉を押し開ける。それでもまだ彼の物語は続いていた。
「それですぐに家に戻って、台所から包丁と、あと念のため、物置で高枝切りバサミを探して、それからあの女の家に――」


「で、桃の葉小学校のことなんですが」
 足を速めて成瀬の横に並びながら、田島は切り出した。話しかけるにはタイミングが不適切なような気もしたが、報告しないわけにはいかない。しかし成瀬は無言のままだった。田島は細心の注意を払い、声の到達距離をミリ単位でコントロールする。
「あの、成瀬さん?」
「聞こえてるよ! さっさと続けろ!」
 その絶妙な制御は毎度のごとく意味を成さなかった。こんなやりとりはいつものことで、さすがに田島も薄々は気づいているが、手順を何よりも重んずる性格から、成瀬の流儀にはどうしても従えない。話しかけたら、返事がある。そして会話が進んでゆく。人と話すとはそういうことだろう。
「あの、やっぱりあるそうです。奴がこちらに引っ越してくる前、実際に通っていたそうで。あいつの歳から逆算すればわかると思いますけど、それも二十年以上も前の話ですが」
 自分の信念を曲げない、あるいは固執する田島であったが、やはり声は震えてしまった。その顔を、立ち止まった成瀬が下から覗き込む。
「わかると思います?」
 いくら浴び続けても慣れることのない冷たい視線、言い換えれば硬直した死体のそれにごく近い、他人をビビらせるためだけに存在している虚無の目が、田島を襲った。
「俺も二桁の足し算くらいできるけどな。知らなかったか?」
「いえ、おっしゃるとおりであります。それどころか、二桁の引き算も得意だと聞いております」
 いったそばから田島はまずいと思った。彼にもその程度の分別はある。かなりひっ迫した状況を迎えつつある予感がした。
「ほー」
 感服しきったフクロウを思わせる息を吐き出したあと、成瀬が視線を外した。田島は即座に身体を縮めて身構えた。パブロフの犬よりも正確な、あまりに見事な条件反射だった。
 けれど成瀬は手を上げることも、足を蹴りだすこともなく、
「しかしそのネタはガセだな。俺の場合、引き算は一桁が限界だ」
 といって、タバコを取り出した。
 ゆっくりと警戒態勢を解いた田島の目の前で、それに火を点けようとする。
「成瀬さん、ここ禁煙ですよ!」
 短い沈黙が訪れた。いうまでもなく、田島には長い沈黙だった。
「てめえが、決めたのか?」
「へっ?」
「てめえが、禁煙だと決めたのか?」
「違いますよ。僕にそんな権限なんか……」
「だったら、ごちゃごちゃぬかすな!」
 田島はひざの裏に重い衝撃を感じた。懐かしい痛みとはいえない。週に一度は必ずやってくる律儀な定期便のような蹴りは、ここのところ確実に田島のひざを蝕んでいた。その衝撃で日頃の調子を取り戻した彼は、残る報告を手早く済ませた。
――通称いぬ屋敷に漂っていた甘い香りの成分については、鑑識の手には負えず、科捜研で引き続き調査中。
――加害者・森住純が入り浸っていた神社の敷地で発見された洋犬の死因は餓死。生き埋めで放置されたものと思われる。頭部の切断は死亡直後に行われた可能性が極めて高い。その場所から三十センチ手前にばら撒かれていた固形のドッグフードは、被害者宅にあったものと一致。ただし死亡した犬が被害者の飼い犬だったかは不明。
――被害者宅で発見された犬十五匹の死因は依然としてわからず。聞き込みの結果、行方不明となった犬も数頭いる模様。
 しかしその十五匹の犬の死因に、田島が僅かな推理をくわえたとき、油断していた彼の頭を成瀬のごつい手が襲った。
「奴が食っちゃったんじゃないすかね。だって内臓がそっくりないなんておかしいですよ」
「背骨をぶち折ってか?」
「それは最初にバットかなんかで叩いたんでしょう」
「で、わずか三十分のうちに、平らげてしまったと?」
「だってあいつブクブクに太っていたじゃないすか。十五匹くらいどうとでもなりますよ」
「ほー、そいつは名推理かもしれんな。ところでお前、これから俺がどこに行くか知ってるか?」
「家に戻られるんですか?」
「そうはいかねえだろ。いくらあいつが精神鑑定に回されるといっても、まだ調べなきゃならねえことがいっぱいある」
「じゃあ、どちらへ?」
「ちょっと腹ごしらえをしようと思ってな。夜は長いしよ。焼肉でも食って精をつけようと思ったんだが……」
「やめるんですか? 行きましょうよ。成瀬さんのおごりで」
「犬を食らう奴の姿を想像したら、急に食欲がなくなってな……」
 意外にナイーブな神経の持ち主だった成瀬の攻撃を、田島は甘んじて受けた。多少懐かしい痛みであった。左側頭部から広がってゆく衝撃波は、たぶん三ヶ月ぶりの目眩く感覚だった。


 森住純は取調べを終え、廊下を歩いていた。手錠がきつく、正義を果たした自分が何でこんな目に会わなければいけないのか、と内心憤慨していた。おまけに腰紐を引く前方の警官の歩みが速く、それも彼を苛立たせた。
 純は少し考え、立ち止まってみた。腰紐がピンと張り、警官が振り返る。その無表情な顔に抗議の視線を送った。
 すると警官はにやりと笑い、純のすぐ目の前まで近づいてきた。少し息が荒く、それは独特の甘さ、まるで薔薇のフレーバーを混ぜたガムのような香りがした。
「お前は正しいことをした。イヌガミはそれを知っている」
 背が高くやせ細った警官は、純を見下ろしながら低い声でいった。まるでイヌガミさまのように、音とならずに漏れる息が多かった。
「それで充分なはずだ」
 といって、警官は口をぱっくりと開き舌を突き出した。純はそれに驚いて、後ずさりをしかけたが、すぐに気がついた。
 口と同時に目も見開いた警官の舌には、端が黒ずみ伸びたゴムのようにビラビラとのたうつ舌の中心には、あのイヌガミの印が浮かんでいた。
 それはミミズ腫れのように膨れ上がり、そして生きているかのように蠢いていた。


    * * *


 あれはたぶん手の込んだイタズラだったのだろう。一度下見に来ているのだから、この家をスタジオに再現することはたやすい。そうしてさも現実のような、しかしあり得ない悪趣味なビデオを作って私に見せたのだ。だいたい地方局とはいえ、人気番組にしては反応が早すぎると思っていた。しかもあのあと裏庭に廻ってみたら、白いワンボックスカーは消えていた。もちろんスタッフも誰ひとりいなかった。
 冷蔵庫に向けた二台の小型カメラが残されたままのキッチン。頬杖をついた圭子は、今日何度目かの深い溜息を吐いた。もうすぐ日付が変わるというのに、まだエックスは戻ってこない。しかし町内を探し歩いても見つからないとなれば、こうしてぼんやりと待つしかなかった。それにあと一時間もすれば、夫が帰ってくる。しがない公務員とはいえ、だからこそこういった場面で彼は頼りになる。エックスを探すにしても、インチキなテレビ局を訴えるにしても。
 エックスのために開けてある掃き出し窓のカーテンが揺れた。風だろうと思いつつも、圭子は立ち上がる。スリッパを引きずりながら、惰性にまかせてそこに近づく。そのとき、玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。圭子はさっとカーテンをめくりエックスがいないことを確認すると、重い足取りで夫を出迎えに向かった。
 いつものようにチャイムを鳴らさずこっそりと帰ってきた夫の顔は、だが普段とは違って格別に明るいものだった。こんな顔を見たのは何年ぶりだろうか、と圭子は考える。おそらく結婚前ではない。離婚騒動の真っ只中にあった当時の彼の表情はいつも暗かった。かといって、その犬好きの傲慢な女と離婚が成立したときでもないし、自分と生活を始めてからでもない。結局、こんな明るい表情をした夫は見たことがない、と圭子は気づいた。記憶に残るそれは、きっと写真か何かで目にしたのだろう。
「今日は早いのね」
 夫のスリッパを揃えて顔を上げた圭子は、不意に抱きすくめられた。やせ細った夫の力は意外にも強かった。
「ちょ、ちょっと待って」
 情熱的なところなどひとかけらもないはずの夫の抱擁に、圭子は面食らった。
「ねえ、どうしたの?」
 だが頭ひとつ分上にある笑顔は、その戸惑いには答えてくれなかった。爪先立ちとなったまま、圭子はキッチンに押し込まれた。
 夫は酒を飲んできたわけではないようだった。唇を割って侵入してきた舌にアルコールの気配はない。代わりに人工的な甘い匂いがした。口いっぱい広がってゆくその芳香は、薔薇の香りにどこか似ていた。
 絡みついてくる夫の舌に、圭子は素直に応じた。腰をすり寄せリズムを合わせる。粘着性の高い音に、衣擦れの乾いた音が重なる。豹変ともいえる夫の態度は気にならなかった。甘ったるい香りに痺れ、圭子の思考は怠惰になっていた。
 それでも唾液の海で探り当てた違和感を、圭子は朦朧とした頭で追い求めた。激しく波打つ夫の舌の表面を撫でると、ひとつの図形が浮かび上がってきた。六角形の頂点を内側で結ぶ二つの三角形。舌先でなぞったそれは曖昧な形ではなく、定規を使って描いたかのように鮮明だった。
 だが圭子は、傷つき腫れあがったとは思えない直線的な模様に、考えを巡らすことはできなかった。いまや舌の戯れだけで昇りつめつつあった。
 夫の右手がスカートをめくり、圭子の小振りな尻を引き寄せる。
 圭子は彼の腿を股で固く挟み込み、こすり上げるように腰をぶつける。
 夫の左手がブラウスの中をまさぐり、圭子の華奢な背中を強く抱きしめる。
 圭子は片足立ちとなり、唇と股の中心に全神経を注ぎ込む。
 濡れた小さな手が首筋に這い、圭子の耳に甘い息を吹きかけた。
 しかし圭子は気づかなかった。
 夫の足元には、やっと帰ってきたエックスがいるというのに。
 ぺしゃんこになったエックスの身体から、赤黒い液体が流れて出しているというのに。



─── 了 ───


【居ぬ神】は【犬祭3/自由投稿部門】に参加しております。
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